1860年(万延元年)は、江戸幕府の権威が大きく揺らいだ転換の年です。
この年、幕府の最高権力者である大老・井伊直弼が江戸城桜田門外で暗殺される事件が起こりました。
この出来事は幕府の支配体制に大きな衝撃を与え、日本全国に動揺が広がります。
つまり1860年は、「幕府の絶対的な権威が崩れ始めた年」といえます。
桜田門外の変は、なぜ起き幕府は揺らいだのか?
井伊直弼の暗殺により幕府の権威は大きく揺らぎます。
黒船来航から攘夷・倒幕へと進む幕末の流れを時系列で確認できます。
Q. 1860年は何が起きた?
A. 桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、遣米使節団が渡米しました。
Q. 咸臨丸とは?
A. 勝海舟らが乗り、日本人の手で太平洋を横断した軍艦です。
Q. 重要人物は?
A. 小栗上野介や勝海舟など、近代化を担う人材が登場しました。
Q. この後どうなる?
A. 尊王攘夷運動が激化し、幕末の動乱が加速します。
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1860年の重要出来事
- 遣米使節団が派遣され、日本が本格的な対外外交を開始した
- 桜田門外の変により、井伊直弼が暗殺された
- 幕府の権威が大きく失墜し、政治の混乱が深まった
この年は何が変わったのか
1860年(万延元年)は、幕府の中心人物が暗殺され、政治の主導権が大きく揺らぎ始めた転換点の年です。
万延元年遣米使節団の派遣
1860年、幕府はアメリカへ使節団を派遣しました。
これは日米修好通商条約の批准書交換のために派遣されたもので、
日本が正式に海外へ代表団を送り、外交を行った最初の本格的な事例です。
使節団はアメリカで大きな注目を集め、日本が国際社会に登場した象徴的な出来事となりました。
この使節団には、小栗上野介、勝海舟、福沢諭吉らも関わり、西洋の制度や技術に触れることになります。
小栗は帰国後、横須賀製鉄所の建設などを進め、日本の近代化に大きな影響を与えることになります。
桜田門外の変(井伊直弼の暗殺)
1860年3月、江戸城桜田門の外で、大老・井伊直弼が水戸藩の浪士らに襲撃され殺害されました。
この事件は、尊王攘夷派による幕府要人暗殺という前例のない出来事であり、幕府の権威を大きく揺るがすことになります。
安政の大獄への反発
井伊直弼は、それまでに反対勢力を弾圧する「安政の大獄」を行っていました。
その強硬な政治への不満が積み重なり、ついに暗殺という形で爆発したのがこの事件でした。
幕府の権威の失墜
最高権力者が江戸城の目の前で暗殺されたことで、幕府の統治能力に対する信頼は大きく崩れました。
これにより、幕府は政治の主導権を維持することが難しくなっていきます。
尊王攘夷運動の激化
この事件をきっかけに、尊王攘夷運動は一気に勢いを増しました。
幕府に代わる政治を求める動きが広がり、倒幕へ向けた流れが加速していきます。
つまり1860年は、幕府の権威が崩れ、日本の政治が大きく動き始めた年でした。
この年の重要人物
1860年は桜田門外の変によって幕府の最高権力者が暗殺され、日本の政治状況が大きく揺らいだ年です。この事件に関わった中心人物を整理します。
幕府側(標的となった人物)
- 井伊直弼
大老として開国政策と安政の大獄を主導したが、桜田門外の変で暗殺された
尊王攘夷派(実行側)
- 有村次左衛門
薩摩藩士として襲撃に参加し、井伊直弼を討った実行者の一人 - 水戸浪士たち
安政の大獄への報復として襲撃を計画・実行した中心勢力
背景となる人物
- 徳川家茂
第14代将軍として事件後の混乱した政局を担うことになる - 孝明天皇
開国に反対し、幕府との対立を深めていた
出来事・事物起源・話題
- 1月7日
- 米船ポーハタン号、品川港に入る
- 1月19日
- 咸臨丸、アメリカに向けて浦賀を出港(乗組みは木村摂津守芥舟、勝麟太郎、福沢諭吉ほか)
- 1月22日
- 遣米使節新見正興一行、浦賀出帆(鎖国以来初めて公然の外交使節)
- 2月14日
- 幕府の遣米使節一行、ハワイ着
- 3月2日
- 水戸藩士金子孫二郎等、陰謀を抱いて脱藩の届書を小石川水戸屋敷に投ず
- 3月3日
- 桜田門外の変
- 3月9日
- 幕府の遣米使節サンフランシスコに着す
- 3月18日
- 万延と改元
- 閏3月6日
- 遣米使節一行、初めて汽車に乗る
- 閏3月28日
- 幕府の遣米使節、ワシントンにて大統領と会見
- 閏3月30日
- 彦根藩に於て藩主井伊掃部頭の死(桜田門外の変)を50余日目に発表す
- 4月3日
- 遣米使節新見正興一行ワシントンにて米国と本条約批准を交換す
- 5月9日
- 遣米使節の新見正興等、ニューヨークに於てペリーの遺族を訪問す
- 5月12日
- 遣米使節一行、米国第一の大船ナイアガラ号にてニューヨーク出帆、帰国の途につく
- 6月30日
- 幕府、高松、郡山、彦根、松江、桑名の5藩に命じ厳に京都を警衛せしむ
- 7月10日
- 皇子祐宮を儲君に立て給う(後の明治天皇)御年9歳なり
- 7月19日
- 長州、水戸の両藩志士、品川碇泊中の丙辰丸の船中密かに盟約を協議す
- 7月22日
- ポルトガル船馬関に来航す
- 8月8日
- 和宮、関東降嫁を固辞し給う
- 8月9日
- 幕府、西洋語の学習を奨励す
- 9月22日
- 高杉晋作、松代に蟄居中の佐久間象山を訪ね両雄初めて会見、夜を徹して語る
- 9月28日
- 明治天皇、立太子の御儀行わる
- 12月5日
- 米国書記官ヒュースケン、江戸赤羽にて清川八郎らに襲われ殺害される
- 12月16日
- 英仏両公使、ヒュースケン殺害事件に憤慨し公使館より国旗を徹し、横浜引揚
天皇
孝明天皇(在位:弘化3年2月13日~慶応2年12月25日)
将軍
徳川家茂[14代](在位:安政5年12月1日~慶応2年8月20日)
大老
井伊直弼
生活の話題
衣
- 各地に時計商現る
その他
- 長崎人和田金助ブリキ細工を始める
この年のポイントまとめ
- 桜田門外の変により、幕府の権威が大きく揺らいだ
- 政治的対立が激化し、倒幕の流れが加速した
- 遣米使節団の派遣により、日本の本格的な外交が始まった
- 国内の混乱と対外進出が同時に進んだ
1860年は、幕府の権威が揺らぐ一方で、日本が本格的に国際社会へ踏み出した年です。
桜田門外の変によって国内の政治は不安定化しましたが、同時に遣米使節団の派遣によって対外外交は進められました。
この年を理解することで、幕末の日本が「国内の混乱」と「国際化」という二つの流れの中で変化していたことが見えてきます。
1860年のよくある質問 Q&A
Q. 1860年とはどんな年ですか?
1860年は、桜田門外の変による政治的混乱と、 遣米使節団・咸臨丸による国際交流が同時に進んだ年です。
Q. 桜田門外の変とは何ですか?
大老・井伊直弼が暗殺され、 幕府の権威が大きく揺らいだ事件です。
Q. 遣米使節団とは何ですか?
日米修好通商条約の批准のため、 日本からアメリカへ派遣された公式使節団です。
Q. 咸臨丸とは何ですか?
日本の軍艦で、勝海舟らが乗り、 日本人の手で初めて太平洋横断を成功させました。
Q. 勝海舟とはどんな人物ですか?
幕臣であり海軍の近代化を推進した人物で、 日本の近代国家形成に大きく貢献しました。
Q. 小栗上野介とはどんな人物ですか?
遣米使節団の一員として渡米し、 西洋の制度を学び、日本の産業近代化に影響を与えました。
Q. なぜ1860年は重要なのですか?
幕府の崩壊が進む一方で、 日本の近代化が同時に進んだ象徴的な年だからです。
Q. この出来事はその後どうつながりますか?
尊王攘夷運動が激化し、
最終的に明治維新へとつながります。
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Q. 1860年の重要人物は誰ですか?
井伊直弼、勝海舟、小栗上野介などが重要人物です。
Q. 1860年は日本にとってどんな意味がありますか?
1860年は、崩壊と近代化が同時に進み、 日本の進路が決定づけられた年です。
権威が揺らいだあと、幕末の動乱はどう進んでいくのか?
桜田門外の変を契機に政治的対立は激化し、幕末の動乱は一気に進みます。
その後の尊王攘夷運動や倒幕への流れをあわせて理解できます。

