1857年(安政4年)は、日本が開国へ向かう流れの中で、外交交渉が本格化した年です。
この年、アメリカ総領事ハリスが幕府との交渉を本格的に進め、日本に対して通商の必要性を強く迫りました。
また、将軍への謁見が実現するなど、日本の外交はこれまでにない段階へと進んでいきます。
つまり1857年は、「開国が現実のものとして動き出した年」といえます。
日本はなぜ通商条約を受け入れざるを得なくなったのか?
外交交渉は大きく進展し、開国はもはや避けられない状況となっていきます。
黒船来航からこの年に至るまでの幕末の流れを時系列で確認できます。
Q. 1857年は何が起きた?
A. ハリスによる通商条約締結の圧力が強まりました。
Q. なぜ重要なのか?
A. 日本が不平等条約を受け入れる直前の重要な局面だったためです。
Q. この後どうなる?
A. 1858年に日米修好通商条約が結ばれます。
→ 1858年(通商条約)を見る
目次
1857年の重要出来事
- ハリスとの通商条約交渉が本格化した
- 幕府内で開国を巡る対立が深まった
- 尊王攘夷思想が各地で広がり始めた
- 将軍継嗣問題が激化し、政治不安が高まった
- 島津斉彬ら雄藩勢力の発言力が強まった
出来事・事物起源・話題
- 2月4日
- オランダ領事キュルチュス、日本の対外方針を改めるよう長崎奉行に説く
- 5月7日
- 下田奉行、ハリスと応接する
- 5月13日
- 将軍家金蔵破りの稀代の盗賊藤岡藤十郎、富蔵ら、吟味の末に浅草にて磔となる
- 5月24日
- 唐人お吉、玉泉寺へ奉公する
- 5月26日
- 下田奉行、ハリスと条約を調印する
- 6月17日
- 老中阿部正弘、急死
- 7月8日
- 米国使節ハリス、下田奉行と下田で会見し、国書の要旨を求めるが許されない
- 7月19日
- 下岡蓮杖、初めて写真機を見る
- 7月22日
- 一橋慶喜を将軍家の後継に推す
- 7月23日
- 徳川斉昭の幕政参事を免じる
- 10月7日
- ハリス、江戸出府のため下田を出発する
- 10月10日
- 長崎鮑ノ浦に日本最初の製鉄所(造船所を兼ねる)が創設され起工される
竣工は文久元年3月25日、落成は同月28日 - 10月14日
- ハリス、将軍との会見がかない、江戸に入る
- 10月21日
- 米国総領事タウセンド・ハリス、江戸城に入り将軍徳川家定に謁し、国書を呈する
- 10月26日
- 米国総領事ハリス、江戸の老中堀田正睦を訪ね、熱心に日米通商の急務を論じる
- 11月28日
- 毛利慶親、外交意見を提出する
- 12月2日
- 老中堀田正睦、米国領事ハリスを招き、両国の交易および公使の江戸駐在を許可する
- 12月12日
- 幕府、米国総領事タウセンド・ハリスの意見書を各大名に示して評議する
- 12月25日
- 日米通商条約の草案が完成する
- 12月29日
- 幕府、諸大名と条約締結を協議する
この年に始まったこと
1857年(安政4年)は、大きな戦争や政変こそありませんでしたが、翌年以降の幕末政治を左右する重要な動きが始まった年です。通商条約交渉や将軍後継者選びが本格化し、幕府は大きな転換点を迎えました。
- 将軍継嗣問題が本格化した
徳川家定の後継者をめぐり、一橋慶喜を推す一橋派と徳川慶福(後の家茂)を推す南紀派の対立が本格化しました。 - 日米修好通商条約交渉が本格的に始まった
ハリスは幕府に対し通商条約の締結を強く求め、日本は本格的な通商交渉の段階へ入りました。 - 朝廷への条約勅許工作が始まった
幕府は通商条約締結に向けて朝廷の承認を得ようとし、外交問題に朝廷が深く関与する時代が始まりました。 - 一橋派と南紀派による政治対立が始まった
将軍継嗣問題を背景に、幕府内部や諸藩を巻き込む政治勢力の対立が激化し始めました。 - 安政政局が本格化した
開国問題と将軍継嗣問題が結びつき、後の安政の大獄へつながる政治局面が形成され始めました。
1857年は、「幕末最大の政治対立が始まった年」でした。
この年は何が変わったのか
1857年(安政4年)は、日本が本格的な通商開始へ向かう中で、幕府の政治不安も強まり始めた年でした。アメリカ総領事ハリスによる通商要求はさらに強まり、開国をめぐる議論は幕府内部や諸藩を大きく揺さぶっていきます。
ハリスとの通商交渉が本格化した
アメリカ総領事ハリスは、幕府に対して自由貿易と条約締結を強く求め続けました。幕府は外国との全面対立を避けるため交渉を進めますが、日本国内では反発も強まっていきます。
日米修好通商条約締結への流れが強まった
1857年頃になると、日本は単なる開港ではなく、本格的な通商条約締結へ向かう段階に入りました。後の日米修好通商条約へつながる外交交渉が、この年に大きく進展していきます。
将軍継嗣問題によって幕府内部が揺れ始めた
13代将軍徳川家定の後継者をめぐり、一橋慶喜を推す勢力と紀州藩の徳川慶福を推す勢力が対立しました。将軍継嗣問題は単なる後継争いではなく、幕府政治そのものを揺るがす大問題へ発展していきます。
尊王攘夷思想がさらに広がり始めた
外国との通商交渉が進む中で、「外国を排除するべきだ」という攘夷思想も急速に広がりました。朝廷を重視する尊王思想と結びつき、後の尊王攘夷運動へつながっていきます。
徳川斉昭の影響力が高まった
水戸藩主徳川斉昭は、幕政改革や攘夷を強く主張し、大きな影響力を持つ存在となっていました。幕府内部でもその発言力は増しており、政局を左右する重要人物となっていきます。
幕末政治がさらに不安定化していった
外国問題と将軍継嗣問題が同時に進行したことで、幕府政治は急速に不安定化していきました。1857年は、後の安政の大獄や尊王攘夷運動へつながる対立構造が鮮明になり始めた一年でした。
この年の重要人物
1857年(安政4年)は、アメリカ総領事ハリスによる通商条約締結の働きかけが本格化した年です。また、将軍継嗣問題が幕府内で大きな政治課題となり、後の安政の大獄や幕末の政争へとつながる対立が表面化しました。この年を理解するうえで重要な人物を整理します。
- タウンゼント・ハリス
アメリカ総領事として幕府との交渉を続け、通商条約締結を強く求めました。翌年の日米修好通商条約へつながる外交の中心人物です。 - 堀田正睦
老中首座としてハリスとの交渉を担当しました。開国を進める立場から、朝廷との調整にも奔走しました。 - 徳川慶喜
一橋派が推す将軍後継候補として注目を集めました。後の第15代将軍となる人物で、この年から幕政の中心的存在として存在感を高めました。 - 徳川慶福(後の徳川家茂)
紀州藩主として将軍後継候補に擁立されました。将軍継嗣問題の中心人物の一人です。
天皇
孝明天皇(在位:弘化3年2月13日~慶応2年12月25日)
将軍
徳川家定[13代](在位:嘉永6年11月23日~安政5年8月8日)
生活の話題
食
- キャベツ輸入
その他
- 踏絵の制を廃す
1857年のポイントまとめ
- 日米通商条約交渉が本格化した
アメリカ総領事ハリスは幕府に対し、通商開始や港の開放を強く求める外交交渉を進めました。 - 幕府内で開国をめぐる対立が深まった
外国との通商に慎重な勢力と、現実的な開国を進める勢力との対立が徐々に強まっていきました。 - 将軍継嗣問題が政治不安を拡大させた
徳川家定の後継をめぐり、一橋慶喜派と紀州慶福派が争い、幕府政治は混乱を深めていきました。 - 井伊直弼が幕政の中心へ近づいていった
大老就任前夜の井伊直弼が政治的影響力を強め、後の安政の大獄へつながる流れが形成されていきました。 - 幕末動乱前夜の緊張が高まった年であった
外交問題と将軍継嗣問題が重なり、日本社会は大きな転換点へ向かい始めていました。
1857年は、外国との通商問題と将軍継嗣問題によって、幕府内部の対立が深まった年でした。表面上はまだ大きな戦乱はありませんでしたが、政治的不安は着実に拡大していきます。 翌1858年には日米修好通商条約締結や安政の大獄へつながり、幕末の動乱はさらに加速していくことになります。きます。
1857年のよくある質問 Q&A
Q. 1857年とはどんな年ですか?
1857年は、アメリカとの通商条約に向けた交渉が進み、 幕府が大きな決断を迫られた年です。
Q. ハリスは何を求めていたのですか?
日本に対して本格的な貿易の開始と、 条約締結を強く要求していました。
Q. なぜ幕府は対応に苦しんだのですか?
外国の圧力と国内の反対意見の間で、 判断が難しかったためです。
Q. 国内ではどのような動きがありましたか?
尊王攘夷の考えが広まり、 外国との関係に対する反発が強まりました。
Q. なぜ1857年は重要なのですか?
日本が本格的な国際関係に踏み込む直前の 決定的な局面だったためです。
Q. 1857年の出来事はその後どうつながりますか?
1858年に日米修好通商条約が結ばれ、
日本は不平等条約の時代へ入ります。
→ 1858年(通商条約)へ
Q. 日本への影響は何ですか?
外交問題が国内政治の対立を激化させ、 幕末の動乱へとつながりました。
Q. 1857年の重要人物は誰ですか?
ハリスや幕府の指導者たちが重要人物です。
Q. 1857年は日本にとってどんな意味がありますか?
1857年は、日本が近代国家への道に進むかどうかの 分岐点となった年です。
この交渉の先に、日本はどのような決断を迫られるのか?
翌年には不平等条約が締結され、国内の対立は一気に激化していきます。
幕末の動乱へとつながるその後の流れをあわせて理解できます。

