1863年(文久3年)は、幕末の情勢が大きく変化し、「思想が現実の行動へと移った年」です。
それまで尊王攘夷は主に議論や主張の段階にありましたが、この年、各地で実際の武力行動へと発展しました。
長州藩は外国船を砲撃し、薩摩藩はイギリスと戦争に突入、京都では政変が起こるなど、日本全体が一気に緊張状態に入ります。
つまり1863年は、「言葉の対立が武力衝突へと変わった年」といえます。
尊王攘夷は、なぜここまで激化したのか?
攘夷の実行や外国との衝突により、幕末の緊張は一気に高まります。
黒船来航からこの年に至るまでの流れを時系列で確認できます。
1863年の重要出来事
- 長州藩が下関で外国船を砲撃し、攘夷を実行した
- 薩英戦争が起こり、薩摩藩がイギリスと戦った
- 新選組が結成され、京都の治安維持にあたった
- 八月十八日の政変により、長州藩勢力が京都から排除された
- 尊王攘夷運動が最高潮に達した
この年は何が変わったのか
1863年(文久3年)は、尊王攘夷が実際の行動に移されると同時に、
国内では治安維持のための新たな勢力が登場し、幕末の対立が一気に激化した年です。
下関攘夷戦(外国船砲撃)
長州藩は朝廷の攘夷命令を受け、下関海峡で外国船を砲撃しました。
攘夷が実行された象徴的な出来事でしたが、結果として欧米諸国との軍事衝突を招くことになります。
薩英戦争
薩摩藩は生麦事件をきっかけにイギリスと戦争になりました。
近代兵器を持つイギリス軍との戦いは厳しく、「攘夷の限界」が現実として突きつけられます。
新選組の結成(京都治安の強化)
この年、京都の治安維持を目的として新選組が結成されました。
幕府側の武力組織として、尊王攘夷派の志士を取り締まり、京都における幕府の影響力を維持する重要な役割を果たします。
政治対立は思想だけでなく、武力による取り締まりへと発展していきました。
八月十八日の政変
京都では、過激な尊王攘夷派であった長州藩と公家勢力が排除されました。
これにより政治の主導権は薩摩・会津などに移り、幕末の政治構造は大きく変化していきます。
尊王攘夷の転換(倒幕への変化)
外国との戦いを通じて、攘夷の実現が困難であることが明らかになりました。
その結果、長州や薩摩は「攘夷」から「倒幕」へと方針を転換していきます。
つまり1863年は、対外では攘夷が失敗し、国内では武力対立が激化した転換点の年でした。
この年の重要人物
1863年は、尊王攘夷の思想が実際の武力行動として表面化し、日本各地で衝突が起こった年です。
幕末の動乱を一気に加速させた中心人物を整理します。
治安維持・幕府側
- 近藤勇
新選組局長として京都の治安維持にあたり、尊王攘夷派の取り締まりを担った - 土方歳三
副長として新選組を実戦部隊へと鍛え上げた - 松平容保
会津藩主として京都守護職に就き、新選組を統括した
尊王攘夷派(武力行動)
- 高杉晋作
長州藩の中心人物として攘夷を実行し、外国船砲撃を主導 - 久坂玄瑞
急進的な尊王攘夷派として京都政局に深く関与
薩摩藩・政治主導
- 島津久光
公武合体路線を進めつつ、政局に大きな影響を与えた
朝廷
- 孝明天皇
攘夷を強く支持し、政治の方向性に大きな影響を与えた
出来事・事物起源・話題
- 1月5日
- 高杉晋作、伊藤俊輔、山尾庸三など、師の吉田松陰刑死の遺骨を回向院より武蔵の若林に移して改葬す
- 1月10日
- 慶喜、参内して天盃を拝受す
- 1月16日
- 勝海舟、山内容堂と面会し、坂本龍馬の土佐藩帰藩を願い出る
- 1月17日
- 朝廷、毛利慶親の朝幕間周旋の功を賞し御剣を賜い、特に参議に任ぜられる
- 1月27日
- 武市半平太、寺島忠三郎、久坂玄瑞、宮部鼎蔵等の各藩の勤王党、京都東山に会して将軍上洛の封策を議す
- 2月8日
- 松平容保(会津藩主)、京都町奉行に任じられる
- 2月8日
- 姉小路公知、同志と連署して攘夷断行を関白に迫る
- 2月11日
- 長州藩士久坂玄瑞、寺島忠三郎、肥前藩士、轟木武兵衛等、関白鷹司邸に至り、言論の自由と人材登用、攘夷期限決定の三策を呈し裁可ある迄動かずと迫る
- 2月13日
- 朝廷に国事掛を設置する
- 2月21日
- 徳川慶喜、松平慶永等、京都近衛邸に立合し政令帰一の問題を議す
- 2月23日
- 仙石隆明等、等持院安置の足利尊氏の木像の首を斬り、三条河原に晒す
- 2月27日
- 京都市の壬生村に壬生組組織され、近藤勇・土方歳三・芹沢鴨・清川八郎等250余名は、これより京都市中の警備に当る(後に新撰組と改称する)
- 3月9日
- 松平慶永の公武合体計画成らず(痛憤して政治総裁の辞表を提出す)
- 3月11日
- 孝明天皇、加茂両社に行幸、攘夷を祈らせ給う。
- 3月11日
- 将軍家茂、鳳輩に供奉し行列盛大、同行幸は二百余年の再興
- 3月12日
- 江戸幕府に初めて騎兵奉行を設け、山口駿河守直毅を奉行に任ず
- 3月14日
- 朝廷、攘夷期日を定めて幕府に命じ之を布告せしめ給う
- 3月15日
- 高杉晋作、頭を丸めて名を東行と改める
- 3月18日
- 島津久光、攘夷の議既に決しながらその言用いられざるを以て京都より退く
- 3月19日
- 幕府の反対を押切って京都に親兵隊を設置
- 3月20日
- 幕府の軍艦咸臨丸、小笠原島の調査を終えて品川へ帰港す
- 3月21日
- 14代将軍家茂、加茂社行幸
- 3月22日
- 将軍家茂の早々の帰府願出に、勤王の志士の間に猛烈な将軍東帰反対運動が起こる
- 4月11日
- 孝明天皇、攘夷御祈願のため石清水行幸、徳川慶喜将軍家茂に代って供奉す
- 4月20日
- 将軍徳川家茂、来る5月10日を以て攘夷実行の期と定めて奏上す
- 5月4日
- 英艦、生麦事件対策の示威運動のため戦闘準備、各国も又居留民保護を名義として神奈川に兵隊を上陸せしむ
- 5月9日
- 老中小笠原長行、英国公使へ生麦事件を謝し賠償金を交付す
- 5月10日
- 攘夷決行(馬関戦争火蓋を切る)
- 5月12日
- 井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)等、密かに横浜を出帆、英国へ密航に成功
- 5月16日
- 坂本龍馬、勝海舟の命にて越前へ赴き、松平春嶽を説き、兵庫の海軍所建設資金5千両を出さしむ
- 5月18日
- 幕府、英・仏守備兵の横浜駐屯を許可
- 5月20日
- 姉小路公知暗殺される
- 5月23日
- 長州藩兵馬関にて仏船を砲撃
- 5月24日
- 長州藩士、馬関海峡外国船砲撃の敗因は小倉藩の傍観の故として之を詰る
- 5月30日
- 藤田小四郎、田丸稲之衛門等、大平山を去り再び筑波山に拠り義旗を翻す
- 6月1日
- 長州藩兵、馬関にて米国軍艦と放火を交え長州の軍船2隻撃沈される
- 6月2日
- 広井磐之助の仇討ち
- 6月3日
- 長州藩の毛利慶親に命じ京都の御所堺町御門を警衛せしめらる
- 6月6日
- 高杉晋作、長州に歩兵隊編成
- 6月8日
- 土佐勤王家の切腹(平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太)
- 6月11日
- 老中小笠原長行、兵を擁して入京の事を不穏としてその職を免じ大阪に幽す
- 6月22日
- 英艦7隻、神奈川発鹿児島に向う
- 6月27日
- イギリス船艦7隻、生麦事件の責任を薩摩藩に問うため鹿児島湾に入る
- 6月29日
- 英艦7隻、鹿児島湾に入る、薩摩の決死隊大山弥助、西郷信吾、野津七次等105名、軍艦襲撃に向い事成らず引上ぐ
- 7月2日
- 薩英戦争(イギリス艦隊鹿児島湾を砲撃)
- 7月12日
- 長州藩士益田右衛門等、兵を率いて京都に入り守衛す
- 7月23日
- 長州藩へ幕府の詰問使到る
- 7月30日
- 会津藩主松平容保、建春門外に於て初めて会津藩兵の操練を天覧に供す
- 8月7日
- 幕府、日章旗を国標と定む
- 8月12日
- 将軍家茂、諸侯と鎖港を議す
- 8月14日
- 中山忠光、吉村寅太郎、藤本鉄石、安積五郎等の天誅組大和に義旗を挙ぐ
- 8月17日
- 天誅組の大和五条の乱起る
- 8月18日
- 八月十八日の政変(堺町御門の変)
- 9月12日
- 島津久光、兵を率いて上京す
- 9月16日
- 新撰組の隊長芹沢鴨斬られ近藤勇これに代る
- 9月20日
- 京都の新撰組隊長芹沢鴨の暗殺により近藤勇代って隊長となる
- 9月23日
- 伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)の両人、密航して英京ロンドンに安着
- 9月28日
- 平野国臣、北垣晋太郎等周防三田尻に来り眞木保臣と会見国事を談ず
- 9月29日
- 幕府、外交談判の困難を奏上す
- 10月1日
- 澤太郎左衛門渡欧しオランダのブラッセル火薬工場に一職工として研究す
- 10月8日
- 島津久光、将軍の上京勧告
- 10月11日
- 平野国臣など、沢宣嘉を奉じて但馬の生野に義兵を挙げ、同地の代官を襲う
- 10月14日
- 生野の義挙に破れた南八郎、但馬の妙見山で自刃
- 11月12日
- 幕府、服制を復旧し熨斗目、長上下、肩衣、白帷子、花色小袖などを用いしむ
- 11月17日
- 幕府の長州征伐に諸藩反対す
- 11月19日
- 米国公使、将軍徳川家茂に国書を呈し鎖国の不可を陳ず
- 11月21日
- 大阪の大火(新町橋東詰より発火、148ヶ村1万4,580余戸焼失)
- 11月26日
- 京都町奉行永井尚志、江戸に着し朝旨を伝達す。徳川慶喜、入洛本願寺に館す
- 12月8日
- 畝傍山東北陵の御修復工事に1万5千両を費し竣工(面目全く一新す)
- 12月13日
- 幕府、ドイツと通商条約調印成る
- 12月14日
- 長藩家老井原主計、三度入京願
- 12月15日
- 三条実美、萩より三田尻に帰る
- 12月24日
- 長州藩が外国船と誤って薩摩の船を撃沈する(薩摩船撃沈事件)
- 12月25日
- 将軍後見職徳川慶喜、諸大名を京都二条城に集め武家を議奏に加えんと議す
- 12月27日
- 幕府第2回目の遣欧使節が横浜を出発
- 12月29日
- 幕府の外国奉行、スイスと通商条約
天皇
孝明天皇(在位:弘化3年2月13日~慶応2年12月25日)
将軍
徳川家茂[14代](在位:安政5年12月1日~慶応2年8月20日)
生活の話題
食
- 物産所フランスより蔬菜樹木の種子20品を下種す
この年のポイントまとめ
- 長州藩が外国船を砲撃し、攘夷が実行された
- 薩英戦争により、欧米の軍事力の強さが明らかになった
- 新選組の結成により、京都の治安維持と弾圧が強化された
- 八月十八日の政変により、政治勢力が大きく変化した
- 攘夷思想が挫折し、倒幕へと流れが転換した
1863年は、尊王攘夷運動が頂点に達し、実際の行動として現れた年です。
しかし外国との戦いを通じてその限界が明らかになり、日本は大きな方向転換を迫られました。
また、国内では新選組のような武力組織が登場し、政治対立は一層激化していきます。
この年を理解することで、幕末の変化が「対外衝突」と「国内対立」の両面から進んでいたことが見えてきます。
また、新選組の活動や攘夷の失敗が、なぜ倒幕運動へとつながっていったのかを理解する重要な鍵となります。
激化した攘夷運動は、この後どのように変化していくのか?
外国との戦闘や国内の対立を経て、やがて倒幕へと流れが変わっていきます。
幕末の転換点となるその後の動きをあわせて理解できます。

