1860年(万延元年)は、江戸幕府の権威が大きく揺らいだ転換の年です。
この年、幕府の最高権力者である大老・井伊直弼が江戸城桜田門外で暗殺される事件が起こりました。
この出来事は幕府の支配体制に大きな衝撃を与え、日本全国に動揺が広がります。
つまり1860年は、「幕府の絶対的な権威が崩れ始めた年」といえます。
1860年の重要出来事【まずここだけ読めばOK】
■ 遣米使節団の派遣
幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、使節団をアメリカへ派遣しました。
この使節団には、小栗上野介、勝海舟、福沢諭吉らも関わり、西洋の制度や技術に触れることになります。
小栗は帰国後、横須賀製鉄所の建設などを進め、日本の近代化に大きな影響を与えることになります。
■ 桜田門外の変
3月3日、水戸藩士らを中心とする浪士が、江戸城桜田門外で大老・井伊直弼を襲撃し、暗殺しました。
幕府の最高権力者が公然と殺害されたこの事件は、日本中に大きな衝撃を与えます。
■ 事件の背景(安政の大獄)
井伊直弼は、開国に反対する勢力を弾圧する「安政の大獄」を行っていました。
この強権政治への反発が、暗殺事件へとつながります。
■ 幕府の動揺
幕府は事件の影響を恐れ、井伊直弼の死をしばらく公表できないほど混乱しました。それほどまでに、この事件は重大な意味を持っていました。
この年は何が変わったのか
桜田門外の変により、大老井伊直弼が暗殺され、幕府の権威は大きく揺らぎました。
最高権力者が白昼堂々と殺害されたことで、幕府の支配は絶対ではないことが広く認識されます。
これにより政治は一気に不安定化し、暴力による対立が広がっていきました。
一方で幕府は遣米使節団を派遣し、近代外交を進めようとしていましたが、内政とのバランスは崩れていきます。
つまり1860年は、「幕府の権威が崩れ、政治が暴力で動き始めた年」です。
この流れは、1863年の武力衝突へと発展していきます。
出来事・事物起源・話題
- 1月7日
- 米船ポーハタン号、品川港に入る
- 1月19日
- 咸臨丸、アメリカに向けて浦賀を出港(乗組みは木村摂津守芥舟、勝麟太郎、福沢諭吉ほか)
- 1月22日
- 遣米使節新見正興一行、浦賀出帆(鎖国以来初めて公然の外交使節)
- 2月14日
- 幕府の遣米使節一行、ハワイ着
- 3月2日
- 水戸藩士金子孫二郎等、陰謀を抱いて脱藩の届書を小石川水戸屋敷に投ず
- 3月3日
- 桜田門外の変
- 3月9日
- 幕府の遣米使節サンフランシスコに着す
- 3月18日
- 万延と改元
- 閏3月6日
- 遣米使節一行、初めて汽車に乗る
- 閏3月28日
- 幕府の遣米使節、ワシントンにて大統領と会見
- 閏3月30日
- 彦根藩に於て藩主井伊掃部頭の死(桜田門外の変)を50余日目に発表す
- 4月3日
- 遣米使節新見正興一行ワシントンにて米国と本条約批准を交換す
- 5月9日
- 遣米使節の新見正興等、ニューヨークに於てペリーの遺族を訪問す
- 5月12日
- 遣米使節一行、米国第一の大船ナイアガラ号にてニューヨーク出帆、帰国の途につく
- 6月30日
- 幕府、高松、郡山、彦根、松江、桑名の5藩に命じ厳に京都を警衛せしむ
- 7月10日
- 皇子祐宮を儲君に立て給う(後の明治天皇)御年9歳なり
- 7月19日
- 長州、水戸の両藩志士、品川碇泊中の丙辰丸の船中密かに盟約を協議す
- 7月22日
- ポルトガル船馬関に来航す
- 8月8日
- 和宮、関東降嫁を固辞し給う
- 8月9日
- 幕府、西洋語の学習を奨励す
- 9月22日
- 高杉晋作、松代に蟄居中の佐久間象山を訪ね両雄初めて会見、夜を徹して語る
- 9月28日
- 明治天皇、立太子の御儀行わる
- 12月5日
- 米国書記官ヒュースケン、江戸赤羽にて清川八郎らに襲われ殺害される
- 12月16日
- 英仏両公使、ヒュースケン殺害事件に憤慨し公使館より国旗を徹し、横浜引揚
天皇
孝明天皇(在位:弘化3年2月13日~慶応2年12月25日)
将軍
徳川家茂[14代](在位:安政5年12月1日~慶応2年8月20日)
大老
井伊直弼
生活の話題
衣
- 各地に時計商現る
その他
- 長崎人和田金助ブリキ細工を始める
この年のポイントまとめ
✔桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された
✔幕府の最高権力者が倒され、権威が大きく揺らいだ
✔安政の大獄への反発が爆発した
✔政治における暴力行為が拡大し始めた
✔幕末の動乱がさらに激化した
1860年は、幕府の支配が揺らぎ始めた重要な年です。
この年を理解することで、その後の尊王攘夷運動と幕府崩壊の流れがより明確に見えてきます。
