1861年(文久元年)の出来事

今から163年前の出来事

出来事・事物起源・話題

2月18日
水戸藩士大津彦五郎、藩主斉昭の冤罪を雪(そそ)がんとして、尊王攘夷の同士数百を動かせしが成らず(一身に罪を負うて自訴す)
2月19日
文久と改元
3月28日
長崎製鉄所開所式、オランダより機械類を取寄せ、製鉄及び造船を兼ねたる工廠長崎鮑浦に落成(総坪数8,226坪、現在の長崎造船所の前身)
4月3日
幕府の開港拒絶の議決す
4月12日
露船対馬に来り侵す(対馬事件)
5月23日
長井雅樂、三条実美へ建白書を呈し、大いに時局の批政を論難す
5月28日
外人排撃の水戸浪士等、品川東漸寺の英国公使を襲い、彼我共に死傷あり
6月3日
伊東玄朴、麻酔薬を使って片脚切断の手術を行なう
6月19日
幕府庶民に令して旧来の大船製造の禁を解き、外国船の購入をも許す
7月2日
山口藩士長井雅樂、老中久世広周と会して大いに公武合体論を唱う
7月11日
品川御殿山に各国公使館を造る
7月26日
桜田門に井伊大老を襲撃せる水戸浪士、金子孫二郎、岡部三十郎等数名刑死
8月3日
長井雅樂、幕府の老中安藤信正に会して大いに公武合体を説く
8月11日
佐賀の藩主鍋島直正、藩にて鋳造せる大砲3門を幕府に贈る
8月22日
米国公使ハリス、幕府の老中安藤信正と同邸に会見し、公使館設置を議す
8月23日
幕府、露船の対馬退去を要求
9月20日
長崎に洋式の病院を初めて設立(開院式)
9月22日
幕府、英・米・仏・露四国公使と下関海峡砲撃事件の償金300万ドルを約す
10月13日
長州藩主毛利慶親、天下の為めに幕府に建言せんとして萩を発途江戸に向う
10月20日
和宮、京の御所を御発輿、将軍家茂への御降嫁のため江戸へ御下向
10月25日
伊東玄北の種痘所、幕府の経営に移り西洋医学所と改称、帝大医学部の前身
11月5日
米国総領事ハリス、江戸城の将軍家茂に謁し国書を呈して開港延期を諾す
11月15日
和宮御降嫁、江戸清水邸御着
11月15日
清川八郎、京都を発って九州下向
12月3日
水野忠徳、伊豆諸島巡視に出発
12月8日
毛利慶親、書を幕府に呈し公武合体を促し国威宣揚の基礎を樹てんと建白す
12月9日
清川八郎、筑紫の大宰府に眞木和泉守保臣を訪ね、王事を論じる
12月14日
幕府詰問使岩倉など帰洛す
12月19日
幕府の咸臨丸、小笠原島統轄のため同島父島着(日本領土たるを明らかにす)
12月22日
開港問題談判のため遣欧使節竹内保徳、松平康直等英艦にて江戸湾を発航す
12月30日
長井雅楽、久世老中と時勢を痛論す
12月30日
幕府、毛利慶親に公武周施を依嘱す

天皇

孝明天皇(在位:弘化3年2月13日~慶応2年12月25日)

将軍

徳川家茂[14代](在位:安政5年12月1日~慶応2年8月20日)

生活の話題

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その他

  • 幕府肥前鮑浦に製鉄所を開く、後の長崎造船所
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