1861年(文久元年)は、幕末の政治と外交が大きく動き出した年です。
この年、幕府は朝廷との関係修復を図る「公武合体」を進める一方で、外国との緊張も高まり、対馬事件のような国際問題にも直面しました。
また、長崎製鉄所の開所や洋式病院の設立など、西洋技術の導入も進み、日本は近代国家へと歩み始めます。
つまり1861年は、「幕府体制の立て直し」と「近代化の胎動」が同時に進んだ重要な年といえます。
1861年の重要出来事【まずここだけ読めばOK】
■ 文久への改元
2月19日、元号が万延から文久へ改められました。幕末の時代が新たな段階に入ったことを象徴する出来事です。
■ 対馬事件
4月、ロシア船が対馬に来航し、占拠の動きを見せました。幕府は対応に追われ、外国の圧力が現実の危機として強く意識されるようになります。
■ 公武合体論の進展
長井雅楽が中心となり、朝廷と幕府の協調による政治安定を目指す公武合体論が広がりました。後の政局に大きな影響を与える重要な動きです。
■ 和宮降嫁
10月に和宮が京都を出発し、11月に江戸へ到着しました。将軍家茂との婚姻は、公武合体政策の象徴として大きな意味を持ちます。
■ 近代化の始まり
長崎製鉄所の開所、洋式病院の設立、西洋医学所への改称など、軍事・医療分野で西洋技術の導入が進みました。
この年は何が変わったのか
幕府は公武合体政策を進め、朝廷との関係強化によって体制の立て直しを図りました。
しかし、尊王攘夷の思想は各地で広がり続け、幕府の統制は次第に弱まっていきます。
外交問題も続き、内外の課題が同時に幕府を圧迫していきました。
安定を目指す動きと、対立が深まる現実がかみ合わず、政治は混迷を深めていきます。
つまり1861年は、「体制維持を図るも、対立が収まらず不安定化が進んだ年」です。
この矛盾は、1862年以降さらに顕在化していきます。
この年の重要人物
1861年は大きな戦乱こそ起きていないものの、幕府の権威低下と政治対立の深まりの中で、各勢力が次の行動に向けて動き始めた年です。この時期に重要な役割を果たした人物を整理します。
■ 幕府・公武合体派
- 和宮(皇女和宮):将軍家茂との降嫁により、公武合体政策の象徴となった
- 徳川家茂:第14代将軍として朝廷との関係改善を進めた
- 安藤信正:老中として公武合体政策を推進した
■ 尊王攘夷派
- 久坂玄瑞:長州藩の尊王攘夷派として活動を強めていく
- 高杉晋作:長州藩内で影響力を高め、後の行動の基盤を築いた
■ 政治の転換に関わる人物
- 島津久光:薩摩藩の実権を握り、幕府と朝廷の間で影響力を強めていく
出来事・事物起源・話題
- 2月18日
- 水戸藩士大津彦五郎、藩主斉昭の冤罪を雪(そそ)がんとして、尊王攘夷の同士数百を動かせしが成らず(一身に罪を負うて自訴す)
- 2月19日
- 文久と改元
- 3月28日
- 長崎製鉄所開所式、オランダより機械類を取寄せ、製鉄及び造船を兼ねたる工廠長崎鮑浦に落成(総坪数8,226坪、現在の長崎造船所の前身)
- 4月3日
- 幕府の開港拒絶の議決す
- 4月12日
- 露船対馬に来り侵す(対馬事件)
- 5月23日
- 長井雅樂、三条実美へ建白書を呈し、大いに時局の批政を論難す
- 5月28日
- 外人排撃の水戸浪士等、品川東漸寺の英国公使を襲い、彼我共に死傷あり
- 6月3日
- 伊東玄朴、麻酔薬を使って片脚切断の手術を行なう
- 6月19日
- 幕府庶民に令して旧来の大船製造の禁を解き、外国船の購入をも許す
- 7月2日
- 山口藩士長井雅樂、老中久世広周と会して大いに公武合体論を唱う
- 7月11日
- 品川御殿山に各国公使館を造る
- 7月26日
- 桜田門に井伊大老を襲撃せる水戸浪士、金子孫二郎、岡部三十郎等数名刑死
- 8月3日
- 長井雅樂、幕府の老中安藤信正に会して大いに公武合体を説く
- 8月11日
- 佐賀の藩主鍋島直正、藩にて鋳造せる大砲3門を幕府に贈る
- 8月22日
- 米国公使ハリス、幕府の老中安藤信正と同邸に会見し、公使館設置を議す
- 8月23日
- 幕府、露船の対馬退去を要求
- 9月20日
- 長崎に洋式の病院を初めて設立(開院式)
- 9月22日
- 幕府、英・米・仏・露四国公使と下関海峡砲撃事件の償金300万ドルを約す
- 10月13日
- 長州藩主毛利慶親、天下の為めに幕府に建言せんとして萩を発途江戸に向う
- 10月20日
- 和宮、京の御所を御発輿、将軍家茂への御降嫁のため江戸へ御下向
- 10月25日
- 伊東玄北の種痘所、幕府の経営に移り西洋医学所と改称、帝大医学部の前身
- 11月5日
- 米国総領事ハリス、江戸城の将軍家茂に謁し国書を呈して開港延期を諾す
- 11月15日
- 和宮御降嫁、江戸清水邸御着
- 11月15日
- 清川八郎、京都を発って九州下向
- 12月3日
- 水野忠徳、伊豆諸島巡視に出発
- 12月8日
- 毛利慶親、書を幕府に呈し公武合体を促し国威宣揚の基礎を樹てんと建白す
- 12月9日
- 清川八郎、筑紫の大宰府に眞木和泉守保臣を訪ね、王事を論じる
- 12月14日
- 幕府詰問使岩倉など帰洛す
- 12月19日
- 幕府の咸臨丸、小笠原島統轄のため同島父島着(日本領土たるを明らかにす)
- 12月22日
- 開港問題談判のため遣欧使節竹内保徳、松平康直等英艦にて江戸湾を発航す
- 12月30日
- 長井雅楽、久世老中と時勢を痛論す
- 12月30日
- 幕府、毛利慶親に公武周施を依嘱す
天皇
孝明天皇(在位:弘化3年2月13日~慶応2年12月25日)
将軍
徳川家茂[14代](在位:安政5年12月1日~慶応2年8月20日)
生活の話題
その他
- 幕府肥前鮑浦に製鉄所を開く、後の長崎造船所
この年のポイントまとめ
✔ 文久への改元により、幕末の新しい局面が始まった
✔ 対馬事件によって、外国の圧力が現実の危機となった
✔ 公武合体論が幕府の重要政策として進められた
✔ 和宮降嫁は、公武合体の象徴的な出来事となった
✔ 長崎製鉄所や洋式病院など、近代化の動きが本格化した
1861年は、幕末の動乱が本格化する直前の重要な一年です。
この年の動きを押さえることで、1862年以降の激動の展開がより理解しやすくなります。
