1854年(嘉永7年)は、日本が約200年続いた鎖国体制を終え、開国へ踏み出した決定的な年です。
前年の黒船来航によって開国を迫られた江戸幕府は、この年、アメリカと日米和親条約を結びました。
これにより、日本は外国船に対して港を開き、国際社会との関係を持つことになります。
つまり1854年は、「鎖国が終わり、日本が世界とつながり始めた年」といえます。
日本はなぜ開国を受け入れざるを得なかったのか?
日米和親条約の締結により、日本は鎖国から開国へと舵を切ります。
黒船来航からこの決断に至るまでの幕末の流れを時系列で確認できます。
Q. 1854年は何が起きた?
A. 日本とアメリカが日米和親条約を結び、開国が始まりました。
Q. なぜ重要なのか?
A. 鎖国体制が終わり、日本が外国と関係を持ち始めたためです。
Q. この後どうなる?
A. 1858年に通商条約が結ばれ、本格的な貿易が始まります。
→ 1858年(通商条約)を見る
目次
1854年の重要出来事
- 日米和親条約が締結され、日本は開国へ踏み出した
- 下田・箱館が開港し、鎖国体制が大きく揺らいだ
- ペリー艦隊が再来航し、幕府へ強く開国を迫った
- ロシアとも日露和親条約が結ばれ、国境問題が定められた
- 幕府内で開国派と攘夷派の対立が広がり始めた
この年に始まったこと
1854年(嘉永7年・安政元年)は、日米和親条約の締結によって日本の開国が具体的に動き出した年です。外国との外交関係や開港体制が始まり、幕末の新たな時代が本格的に幕を開けました。
- 日米和親条約体制が始まった
幕府とアメリカの間で日米和親条約が締結され、日本は正式にアメリカとの外交関係を開始しました。 - 下田・箱館の開港が始まった
条約により下田と箱館(現在の函館)が開港され、外国船への補給や接遇を行う港として運用が始まりました。 - 外国との正式な外交関係が始まった
鎖国時代の限定的な交流から一歩進み、欧米諸国との継続的な外交交渉を行う体制が整い始めました。 - ロシアとの国境交渉が始まった
ロシア使節プチャーチンとの交渉が進み、翌年の日露和親条約締結へ向けた外交協議が本格化しました。 - 開国後の幕政運営が始まった
幕府は外国との交渉や海防問題への対応を常時行う必要に迫られ、従来とは異なる政治運営が始まりました。
1854年は、「日本の開国体制が始まった年」でした。
この年は何が変わったのか
1854年(嘉永7年・安政元年)は、日本が本格的に「開国」へ向かい始めた年でした。前年のペリー来航に続き、幕府はアメリカとの間で日米和親条約を締結し、長く続いた鎖国体制は大きな転換点を迎えます。
日米和親条約によって開国が始まった
1854年、江戸幕府はアメリカとの間で日米和親条約を締結しました。これにより下田・函館が開港され、日本は長く続けてきた鎖国政策を大きく転換することになります。
ペリー再来航によって幕府は決断を迫られた
前年に続いてペリー艦隊が再来航し、幕府への圧力はさらに強まりました。軍事力の差を痛感した幕府は、武力衝突を避けるため条約締結へ踏み切ることになります。
鎖国政策が事実上終わりへ向かった
完全な自由貿易こそ始まっていませんでしたが、日米和親条約によって日本は外国船への補給や寄港を認めるようになりました。これにより、200年以上続いた鎖国体制は事実上終わりへ向かっていきます。
海防問題と軍備強化への関心が高まった
欧米列強の圧力を受け、日本国内では海防や軍事改革の必要性が急速に意識されるようになりました。各藩でも西洋式兵器や洋学への関心が高まり、後の近代化へつながる動きが始まります。
安政時代が始まり幕末政治が本格化した
1854年には元号が「安政」へ改元されました。開国問題をきっかけに、幕府・朝廷・諸藩の対立は次第に激化していきます。ここから日本は、尊王攘夷運動や倒幕運動へ向かう幕末政治の時代へ入っていきました。
外国との条約問題が日本政治の中心となった
日米和親条約の締結によって、外国との外交対応は幕府最大の課題となりました。この後、日本は欧米列強との条約締結を次々に進めることになり、幕末の政治対立はさらに深まっていきます。
この年の重要人物
1854年(嘉永7年・安政元年)は、日米和親条約が締結され、日本が鎖国体制から開国へ向かう大きな一歩を踏み出した年です。また、ロシアとの交渉も進み、幕府は欧米列強への対応を迫られました。日本外交の転換点となったこの年を理解するうえで重要な人物を整理します。
- ペリー
再来航して幕府との交渉を行い、日米和親条約の締結を実現しました。日本の開国を促した中心人物です。 - 阿部正弘
老中首座として開国政策を主導しました。日米和親条約の締結や海防強化を進め、幕末改革の中心を担いました。 - プチャーチン
ロシア使節として長崎で幕府との交渉を続けました。翌年の日露和親条約締結につながる重要な外交を進めました。 - 徳川家定
江戸幕府第13代将軍です。開国という大きな転換点を迎えた幕府の最高権力者として、その時代を担いました。 - 徳川斉昭
水戸藩主として海防強化や攘夷を主張しました。開国をめぐる議論の中で大きな影響力を持った人物です。
出来事・事物起源・話題
- 1月7日
- 露使プチャーチン、長崎に来港、通商を促し幕府の代表に拒絶される
- 1月10日
- 米国水師提督ペリー、軍艦7隻を率い、琉球那覇港を発して日本内地へ向う
- 1月16日
- 米国使節ペリー、再び浦賀に来航し、沿岸地方及び江戸の上下為めに騒然たり
- 2月25日
- 米国提督ペリーに迫られ幕府遂に下田・函館2港の開港条約を結ぶ
(但し翌年7月開期となすという条件を付す) - 3月3日
- 日米和親条約調印
- 3月23日
- ロシア使節、海軍中将プチャーチン軍艦3隻にて再び長崎へ来航す
- 3月28日
- 吉田松陰、金子重輔の両人海外密航を企てて成らず自首して幕吏に捕わる
- 4月5日
- 松蔭事件に連坐して佐久間象山捕わる
- 4月6日
- 佐久間象山、江戸伝馬町の揚屋入れられる(約半年の間、審問を受ける事になる)
- 4月6日
- 京都の大火(皇居炎上)
- 4月9日
- 井伊直弼、京都守護職となる
- 4月10日
- 西郷吉之助江戸にて藤田東湖と初対面、西郷の勤王熱これより愈々高まる
- 4月15日
- 吉田松陰、下田より江戸傳馬町の獄に送られる(9月18日罪案定まる)
- 4月16日
- 老中阿部正弘に皇居造営総奉行を命じられる(同月6日の皇居炎上の為)
- 4月21日
- 江川太郎左衛門、韮山に反射炉築造に着手(現在遺る同地の反射炉)
- 5月14日
- 幕府、韮山の代官江川太郎左衛門に下田港付近の警備を委任す
- 5月22日
- 幕府の応接使林大学頭、下田の了仙寺に於てペリーと会し条約付録に調印す
- 5月26日
- 浦賀にて新造船鳳凰丸の試運転
- 6月30日
- 幕府再び函館奉行を置く
- 7月15日
- イギリス艦4隻、長崎に入港し、修好を求む
- 7月24日
- 徳川斉昭の幕政参画を許さる
- 閏7月4日
- オランダのファビュス中佐、長崎奉行に対し日本海軍創設を勧告す
- 8月23日
- 日英和親仮条約調印(長崎、函館開港を約す)
- 9月17日
- 軍艦プチャーチン大阪に入る
- 9月29日
- 佐久間象山、揚屋より出で蟄居を命じられ郷里松代へ護送さる
- 10月22日
- 川路聖謨、露使会見の為下田着
- 11月4日
- (逸話) 濱口梧陵、地震襲来(安政南海地震)と津波を予見し村を救う
- 11月16日
- 幕府、松代・庄内両藩に江戸品川台場の警衛を命ず
- 11月18日
- 幕府、大阪を中心とする沿海防備のため紀伊の加田、淡路の由良、岩屋、播磨の明石等に砲台設置を各藩に命ず
- 11月27日
- 安政と改元
- 12月12日
- フランス船下谷来航、漂民を送る
- 12月21日
- 下田にて幕府代表筒井政憲、川路聖謨、露国のプチャーチンと和親条約締結(下田、長崎、函館開港、樺太雑居を約す)
- 12月23日
- 海防の急に諸国寺院の梵鐘を鋳て鉄砲を造るべしと勅命あり
天皇
孝明天皇(在位:弘化3年2月13日~慶応2年12月25日)
将軍
徳川家定[13代](在位:嘉永6年11月23日~安政5年8月8日)
生活の話題
衣
- 幕府函館で綿羊試飼
その他
- ペリー、幕府に伝信機、蒸気車の雛形を献ず(1月)
- 日章旗を日本船舶の船印と定む
- 盛岡藩士釜石鉄山を試掘
- 鹿児島・福岡藩にガラス製造工場あり
- 川本幸民の「遠西奇器述」、広瀬元恭の「理学提要」出づ
1854年のポイントまとめ
- 日米和親条約が締結され、日本は開国へ踏み出した
ペリー再来航を受けて日米和親条約が結ばれ、下田・函館の開港などが決定しました。 - 約200年続いた鎖国体制が大きく転換した
江戸幕府は外国船への対応を迫られ、日本は本格的に対外関係を持つ時代へ入っていきました。 - 欧米列強との外交が本格化し始めた
アメリカに続き、イギリス・ロシア・オランダとも条約が結ばれ、日本の国際化が進み始めました。 - 幕府への不安と批判が徐々に高まった
外国への対応をめぐり、幕府の弱腰を批判する声が広がり、尊王攘夷運動の土台が形成されていきました。 - 幕末動乱がさらに加速する重要な年となった
1854年は、開国によって日本社会が大きく変化し始めた、幕末史の大きな転換点でした。
1854年は、日米和親条約によって日本が開国へ踏み出した年でした。長く続いた鎖国体制は大きく揺らぎ、日本は欧米列強との外交時代へ入っていきます。 一方で、幕府への不満や攘夷思想も広がり始め、後の幕末動乱へつながっていくことになりました。
1854年のよくある質問 Q&A
Q. 1854年とはどんな年ですか?
1854年は、日米和親条約が締結され、 日本が開国へと踏み出した年です。
Q. 日米和親条約とは何ですか?
日本とアメリカの間で結ばれた条約で、 下田・函館の開港などが定められました。
Q. なぜ条約が結ばれたのですか?
黒船来航により、 日本は開国を迫られたためです。
Q. 鎖国は完全に終わったのですか?
この時点では限定的な開国でしたが、 鎖国体制は大きく崩れました。
Q. なぜ1854年は重要なのですか?
日本が外国との関係を持ち始め、 近代化への第一歩となったためです。
Q. 1854年の出来事はその後どうつながりますか?
1858年に通商条約が結ばれ、
本格的な開国と貿易が始まります。
→ 1858年(通商条約)へ
Q. 日本への影響は何ですか?
幕府の権威が揺らぎ、 政治的な混乱が拡大していきました。
Q. 1854年の重要人物は誰ですか?
ペリーや幕府の指導者たちが重要人物です。
Q. 1854年は日本にとってどんな意味がありますか?
1854年は、日本が鎖国を終え、 世界と関わる時代へと移行した年です。
開国という決断は、日本に何をもたらしたのか?
条約締結をきっかけに、国内では攘夷や政治対立が激化していきます。
幕末の動乱へとつながるその後の流れをあわせて理解できます。

