1854年(嘉永7年)の出来事

日米和親条約と開国

今から172年前の出来事

この年の位置づけ

開国と条約締結

日米和親条約が結ばれ、日本は下田・箱館を開港しました。諸外国との交渉が本格化し、幕府への不満も徐々に高まっていきます。

1854年(嘉永7年)は、日本が約200年続いた鎖国体制を終え、開国へ踏み出した決定的な年です。

前年の黒船来航によって開国を迫られた江戸幕府は、この年、アメリカと日米和親条約を結びました。

これにより、日本は外国船に対して港を開き、国際社会との関係を持つことになります。

つまり1854年は、「鎖国が終わり、日本が世界とつながり始めた年」といえます。

まず全体を把握

日本はなぜ開国を受け入れざるを得なかったのか?

日米和親条約の締結により、日本は鎖国から開国へと舵を切ります。
黒船来航からこの決断に至るまでの幕末の流れを時系列で確認できます。

幕末の始まりから流れを一気に理解する →
1854年のポイントQ&A

Q. 1854年は何が起きた?
A. 日本とアメリカが日米和親条約を結び、開国が始まりました。

Q. なぜ重要なのか?
A. 鎖国体制が終わり、日本が外国と関係を持ち始めたためです。

Q. この後どうなる?
A. 1858年に通商条約が結ばれ、本格的な貿易が始まります。
1858年(通商条約)を見る

1854年の重要出来事

  • 日米和親条約が締結され、日本は開国へ踏み出した
  • 下田・箱館が開港し、鎖国体制が大きく揺らいだ
  • ペリー艦隊が再来航し、幕府へ強く開国を迫った
  • ロシアとも日露和親条約が結ばれ、国境問題が定められた
  • 幕府内で開国派と攘夷派の対立が広がり始めた

この年に始まったこと

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1854年(嘉永7年・安政元年)は、日米和親条約の締結によって日本の開国が具体的に動き出した年です。外国との外交関係や開港体制が始まり、幕末の新たな時代が本格的に幕を開けました。

  • 日米和親条約体制が始まった
    幕府とアメリカの間で日米和親条約が締結され、日本は正式にアメリカとの外交関係を開始しました。
  • 下田・箱館の開港が始まった
    条約により下田と箱館(現在の函館)が開港され、外国船への補給や接遇を行う港として運用が始まりました。
  • 外国との正式な外交関係が始まった
    鎖国時代の限定的な交流から一歩進み、欧米諸国との継続的な外交交渉を行う体制が整い始めました。
  • ロシアとの国境交渉が始まった
    ロシア使節プチャーチンとの交渉が進み、翌年の日露和親条約締結へ向けた外交協議が本格化しました。
  • 開国後の幕政運営が始まった
    幕府は外国との交渉や海防問題への対応を常時行う必要に迫られ、従来とは異なる政治運営が始まりました。

1854年は、「日本の開国体制が始まった年」でした。

この年は何が変わったのか

1854年(嘉永7年・安政元年)は、日本が本格的に「開国」へ向かい始めた年でした。前年のペリー来航に続き、幕府はアメリカとの間で日米和親条約を締結し、長く続いた鎖国体制は大きな転換点を迎えます。

日米和親条約によって開国が始まった

1854年、江戸幕府はアメリカとの間で日米和親条約を締結しました。これにより下田・函館が開港され、日本は長く続けてきた鎖国政策を大きく転換することになります。

ペリー再来航によって幕府は決断を迫られた

前年に続いてペリー艦隊が再来航し、幕府への圧力はさらに強まりました。軍事力の差を痛感した幕府は、武力衝突を避けるため条約締結へ踏み切ることになります。

鎖国政策が事実上終わりへ向かった

完全な自由貿易こそ始まっていませんでしたが、日米和親条約によって日本は外国船への補給や寄港を認めるようになりました。これにより、200年以上続いた鎖国体制は事実上終わりへ向かっていきます。

海防問題と軍備強化への関心が高まった

欧米列強の圧力を受け、日本国内では海防や軍事改革の必要性が急速に意識されるようになりました。各藩でも西洋式兵器や洋学への関心が高まり、後の近代化へつながる動きが始まります。

安政時代が始まり幕末政治が本格化した

1854年には元号が「安政」へ改元されました。開国問題をきっかけに、幕府・朝廷・諸藩の対立は次第に激化していきます。ここから日本は、尊王攘夷運動や倒幕運動へ向かう幕末政治の時代へ入っていきました。

外国との条約問題が日本政治の中心となった

日米和親条約の締結によって、外国との外交対応は幕府最大の課題となりました。この後、日本は欧米列強との条約締結を次々に進めることになり、幕末の政治対立はさらに深まっていきます。

この年の重要人物

1854年(嘉永7年・安政元年)は、日米和親条約が締結され、日本が鎖国体制から開国へ向かう大きな一歩を踏み出した年です。また、ロシアとの交渉も進み、幕府は欧米列強への対応を迫られました。日本外交の転換点となったこの年を理解するうえで重要な人物を整理します。

  • ペリー
    再来航して幕府との交渉を行い、日米和親条約の締結を実現しました。日本の開国を促した中心人物です。
  • 阿部正弘
    老中首座として開国政策を主導しました。日米和親条約の締結や海防強化を進め、幕末改革の中心を担いました。
  • プチャーチン
    ロシア使節として長崎で幕府との交渉を続けました。翌年の日露和親条約締結につながる重要な外交を進めました。
  • 徳川家定
    江戸幕府第13代将軍です。開国という大きな転換点を迎えた幕府の最高権力者として、その時代を担いました。
  • 徳川斉昭
    水戸藩主として海防強化や攘夷を主張しました。開国をめぐる議論の中で大きな影響力を持った人物です。

出来事・事物起源・話題

1月7日
ロシア使節プチャーチンが長崎に来港し、通商を求めるが幕府の代表に拒否される
1月10日
アメリカ海軍提督ペリーが軍艦7隻を率いて琉球の那覇港を出港し、日本へ向かう
1月16日
アメリカ使節ペリーが再び浦賀に来航し、沿岸地域や江戸は大きな騒ぎとなる
2月25日
アメリカ提督ペリーの要求を受け、幕府は下田・函館の2港を開港する条約を結ぶ
(ただし翌年7月に開港する条件を付す)
3月3日
日米和親条約調印
3月23日
ロシア使節プチャーチンが軍艦3隻を率いて再び長崎へ来航する
3月28日
吉田松陰と金子重輔が海外密航を企てるが失敗し、自首して幕府に捕らえられる
4月5日
松陰事件に連座して佐久間象山が捕らえられる
4月6日
佐久間象山が江戸伝馬町の牢に収容される(約半年間にわたり取り調べを受ける)
4月6日
京都で大火が発生し、皇居が焼失する
4月9日
井伊直弼が京都守護職となる
4月10日
西郷吉之助が江戸で藤田東湖と初めて会い、尊王の志をさらに強める
4月15日
吉田松陰が下田から江戸伝馬町の牢へ送られる(9月18日に処分が決定する)
4月16日
老中阿部正弘が皇居造営総奉行に任じられる(同月6日の皇居焼失による)
4月21日
江川太郎左衛門が韮山で反射炉の建設に着手する(現在も遺構が残る)
5月14日
幕府が韮山代官江川太郎左衛門に下田港周辺の警備を命じる
5月22日
幕府の応接使林大学頭が下田の了仙寺でペリーと会見し、条約付録に調印する
5月26日
浦賀で新造船鳳凰丸の試運転が行われる
6月30日
幕府が函館奉行を再設置する
7月15日
イギリス艦4隻が長崎に入港し、修好を求める
7月24日
徳川斉昭の幕政参加が認められる
閏7月4日
オランダのファビュス中佐が長崎奉行に日本海軍創設を提言する
8月23日
日英和親仮条約調印(長崎・函館の開港を約する)
9月17日
軍艦プチャーチンが大坂に入港する
9月29日
佐久間象山が牢を出て蟄居を命じられ、松代へ送られる
10月22日
川路聖謨がロシア使節との会見のため下田に到着する
11月4日
(逸話)濱口梧陵が地震と津波(安政南海地震)を察知し、村人を避難させる
11月16日
幕府が松代藩と庄内藩に江戸品川台場の警備を命じる
11月18日
幕府が大坂周辺の沿岸防備のため、各藩に砲台設置を命じる
11月27日
安政と改元
12月12日
フランス船が来航し、漂流民を送り届ける
12月21日
下田で幕府代表の筒井政憲・川路聖謨がロシアのプチャーチンと和親条約を締結する(下田・長崎・函館の開港と樺太雑居を定める)
12月23日
海防強化のため、諸国の寺院の梵鐘を鋳つぶして大砲を製造するよう勅命が下される

天皇

孝明天皇(在位:弘化3年2月13日~慶応2年12月25日)

将軍

徳川家定[13代](在位:嘉永6年11月23日~安政5年8月8日)

生活の話題

  • 幕府函館で綿羊試飼

その他

  • ペリー、幕府に伝信機、蒸気車の雛形を献ず(1月)
  • 日章旗を日本船舶の船印と定む
  • 盛岡藩士釜石鉄山を試掘
  • 鹿児島・福岡藩にガラス製造工場あり
  • 川本幸民の「遠西奇器述」、広瀬元恭の「理学提要」出づ

1854年のポイントまとめ

  • 日米和親条約が締結され、日本は開国へ踏み出した
    ペリー再来航を受けて日米和親条約が結ばれ、下田・函館の開港などが決定しました。
  • 約200年続いた鎖国体制が大きく転換した
    江戸幕府は外国船への対応を迫られ、日本は本格的に対外関係を持つ時代へ入っていきました。
  • 欧米列強との外交が本格化し始めた
    アメリカに続き、イギリス・ロシア・オランダとも条約が結ばれ、日本の国際化が進み始めました。
  • 幕府への不安と批判が徐々に高まった
    外国への対応をめぐり、幕府の弱腰を批判する声が広がり、尊王攘夷運動の土台が形成されていきました。
  • 幕末動乱がさらに加速する重要な年となった
    1854年は、開国によって日本社会が大きく変化し始めた、幕末史の大きな転換点でした。

1854年は、日米和親条約によって日本が開国へ踏み出した年でした。長く続いた鎖国体制は大きく揺らぎ、日本は欧米列強との外交時代へ入っていきます。 一方で、幕府への不満や攘夷思想も広がり始め、後の幕末動乱へつながっていくことになりました。

1854年のよくある質問 Q&A

Q. 1854年とはどんな年ですか?

1854年は、日米和親条約が締結され、 日本が開国へと踏み出した年です。

Q. 日米和親条約とは何ですか?

日本とアメリカの間で結ばれた条約で、 下田・函館の開港などが定められました。

Q. なぜ条約が結ばれたのですか?

黒船来航により、 日本は開国を迫られたためです。

Q. 鎖国は完全に終わったのですか?

この時点では限定的な開国でしたが、 鎖国体制は大きく崩れました。

Q. なぜ1854年は重要なのですか?

日本が外国との関係を持ち始め、 近代化への第一歩となったためです。

Q. 1854年の出来事はその後どうつながりますか?

1858年に通商条約が結ばれ、 本格的な開国と貿易が始まります。
1858年(通商条約)へ

Q. 日本への影響は何ですか?

幕府の権威が揺らぎ、 政治的な混乱が拡大していきました。

Q. 1854年の重要人物は誰ですか?

ペリーや幕府の指導者たちが重要人物です。

Q. 1854年は日本にとってどんな意味がありますか?

1854年は、日本が鎖国を終え、 世界と関わる時代へと移行した年です。

次に読むなら

開国という決断は、日本に何をもたらしたのか?

条約締結をきっかけに、国内では攘夷や政治対立が激化していきます。
幕末の動乱へとつながるその後の流れをあわせて理解できます。

幕末の転換点をまとめて確認する →

時代の流れをもう少し広く見る

幕末年表から、この年の前後をたどる

黒船来航から大政奉還まで、幕末の流れを時系列で整理しています。

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