1884年(明治17年)は、自由民権運動が大きく揺れ動き、社会不安が表面化した年です。
この年、華族令が制定され、近代国家の身分制度が整えられる一方で、政治への不満は各地で高まりました。とくに秩父事件では、困窮した農民たちが負債の軽減などを求めて武装蜂起し、政府によって鎮圧されます。
また、加波山事件など自由民権運動の急進化も見られ、社会は不安定さを増していきました。
つまり1884年は、「近代国家の制度が整う一方で、民衆の不満が爆発し、社会の緊張が高まった年」といえます。
なぜ明治政府は新しい支配体制を整え始めたのか?
華族令の制定により、日本は近代国家として新たな統治体制を整備していきます。
明治維新からこの年に至るまでの改革と制度整備の流れを時系列で確認できます。
Q. 1884年は何が起きた?
A. 華族令により新しい貴族制度が整備されました。
Q. なぜ重要なのか?
A. 近代国家としての身分制度が再編されたためです。
Q. この後どうなる?
A. 憲法制定が進み、1889年に公布されます。
→ 1889年(大日本帝国憲法)を見る
目次
1884年の重要出来事
- 華族令が制定され、近代的貴族制度が整備された
- 秩父事件が発生し、自由民権運動が激化した
- 自由民権運動への政府弾圧がさらに強化された
- 伊藤博文らによる憲法制定準備が進められた
- 近代国家体制と立憲政治整備が本格化した
この年に始まったこと
1884年(明治17年)は、華族制度の整備や内閣制度創設へ向けた準備が進められた年です。近代国家としての政治制度が形を整え始め、日本の立憲国家化が一歩前進しました。
- 華族令が制定された
公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五爵制度が定められ、近代的な華族制度が始まりました。 - 華族による貴族院構想が始まった
将来の帝国議会開設を見据え、貴族院の基盤となる華族制度の整備が進められました。 - 内閣制度創設への準備が本格化した
伊藤博文を中心に、欧州諸国を参考とした近代的な政府制度の検討が進められました。 - 近代的な官僚制度の整備が進み始めた
憲法制定と議会開設に向けて、中央政府の組織改革が本格的に進められました。 - 秩父事件を契機とした民権運動の新局面が始まった
秩父事件の発生により、自由民権運動は武装蜂起から議会政治を目指す方向へ転換する時代を迎えました。
1884年は、「華族制度と立憲国家づくりが始まった年」でした。
この年は何が変わったのか
1884年(明治17年)は、明治政府が立憲国家体制整備をさらに進めた年でした。華族制度の整備や内閣制度準備が進む一方、自由民権運動への弾圧も強まり、政治対立はより激しくなっていきます。
華族令によって新しい貴族制度が整えられた
1884年、明治政府は華族令を制定し、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五爵制度を整備しました。これは後の貴族院設置を見据えた制度であり、日本型立憲国家づくりの一環として進められます。
秩父事件によって自由民権運動が激化した
埼玉県で秩父事件が発生し、困窮した農民や自由民権運動支持者が蜂起しました。政府はこれを武力で鎮圧し、自由民権運動への警戒をさらに強めていきます。
自由民権運動への弾圧が強化された
秩父事件を受けて、政府は民権派への取り締まりを強化しました。急進的政治運動への警戒が高まり、自由民権運動は次第に転換期を迎えていきます。
内閣制度導入への準備が進められた
伊藤博文を中心に、近代国家としての政府制度整備が進められていました。太政官制から近代的内閣制度へ移行する準備が本格化していきます。
朝鮮問題によって東アジア情勢が緊張した
1884年には朝鮮で甲申事変が発生し、日本と清の対立が強まりました。日本は朝鮮への影響力拡大を図り始め、後の日清関係悪化へつながっていきます。
立憲国家と近代社会づくりが同時に進んだ
政治制度・外交・社会制度改革が同時に進み、日本は近代国家としての形をさらに整えていきました。1884年は、明治国家体制がより具体化した重要な一年でした。
この年の重要人物
1884年(明治17年)は、華族令が制定される一方で、自由民権運動の急進化を背景に加波山事件が発生した年です。また、伊藤博文が憲法制定に向けて制度研究を進めるなど、立憲国家への準備も着実に進められました。近代国家建設と政治対立が並行して進んだこの年を理解するうえで重要な人物を整理します。
- 伊藤博文
憲法制定に向けた制度研究を進めました。後の大日本帝国憲法制定へ向けて中心的な役割を担った人物です。 - 板垣退助
自由民権運動の指導者として活動を続けました。政府による民権運動への取り締まりが強まる中でも、政治参加の拡大を訴えました。 - 井上馨
政府首脳の一人として欧化政策や条約改正交渉を進めました。近代国家建設を推進した中心人物の一人です。
出来事・事物起源・話題
- 1月4日
- 官吏の恩給令公布
- 1月9日
- 大阪市東区の大火(1,440戸焼失)
- 1月23日
- 近衛兵に軍旗を授与する
- 2月15日
- 朝鮮に初めて電信取扱開始(日本の経営にて内地釜山局間に限られる)
- 2月16日
- 陸軍卿大山巌、川上操六・桂太郎両大佐を従え、欧州兵制視察のため横浜出発
- 2月17日
- 梅ケ谷藤太郎、横綱となる
- 3月10日
- 芝浜離宮の延陵館に天覧相撲催され初代梅ケ谷に横綱を許される
- 3月15日
- 地租条約制定(税率の固定、法定地価の決定)
- 3月17日
- 憲法制定取調局設置され、参議伊藤博文が長官を兼ねる
- 4月2日
- 明治天皇・皇后、隅田川に海軍兵のボート競漕を観覧
- 4月7日
- 山本長五郎(清水次郎長)、賭博で懲役7年、罰金400円に処せられる
- 5月1日
- 大阪商船会社創立開業する
- 5月7日
- 区町村会法改正、戸長官選となる
- 5月12日
- フランスの化学者シャルドネにより人造絹糸発明され学会に発表報告
- 5月13日
- 群馬事件起こる
- 5月17日
- 東京帝国大学に造船科新設される
- 5月24日
- 学習院、初代院長に谷干城を任命
- 5月27日
- 蒸気起重機を初めて横浜停車場の荷揚場に建設し、運輸に便ならしめる
- 6月1日
- 天気予報を巡査交番所に掲示開始
- 6月7日
- 商標に関する条例制定
- 6月12日
- 鹿鳴館で日本初のバザー
- 6月16日
- 全国天気予報開始
- 6月25日
- 日本薬局方制定公布される
- 6月26日
- 陸地測量事業、参謀本部に管轄統一される
- 7月7日
- 華族令定める(爵位公・侯・伯・子・男の五位の制成る)
- 7月21日
- 横須賀造船所の開渠式
- 7月26日
- ハワイホノルルに領事館設置
- 7月28日
- 京都二条城を離宮と定めらる
- 8月10日
- 自由党有一館設立される
- 8月10日
- 武州御殿峠に困民党蜂起
- 9月5日
- 宇品港(広島港)の築港着手
- 9月23日
- 茨城県下自由党の加波山事件起こる
- 10月10日
- 相州観音崎の砲台成る
- 10月13日
- グリニッジの世界標準時定める
- 10月17日
- 学生ボート競漕、隅田川吾妻橋付近に催される(最初のボートレース)
- 10月18日
- 巡洋艦「畝傍」フランスより回航の途につく(12月3日にシンガポールを発ったのち消息不明)
- 10月29日
- 自由党解党
- 10月31日
- 秩父事件起こる(国民党が一斉に蜂起)
- 11月1日
- 明治天皇、不忍池畔競馬場臨幸
- 11月6日
- 内村鑑三、離婚を機に渡米する
- 12月4日
- 甲申事変(ソウルで金玉均、朴泳孝ら親日派によるクーデターが起こる)
- 12月4日
- 飯田事件(名古屋鎮台・監獄襲撃の計画)発覚する
- 12月6日
- 京城にて竹添公使の守兵、清国袁世凱の兵2,000と王宮の内外に衝突
- 12月15日
- 横須賀に鎮守府開設布告
- 12月17日
- 大隈重信ら改進党を脱党、名古屋事件(政府転覆の計画)発覚する
- 12月24日
- 外務卿井上馨を朝鮮に遣して談判
生活の話題
衣
- 官吏の服制定まる
- 鹿鳴館時代はじまり上流婦人の洋装はやる
- 織物不況の時であるが綿ネル生産のみは高まる
- 都市で首巻すたれ、肩掛はやる
- バリカンが輸入され始める
- 経木真田帽子の製作はじまる
- 足利・桐生に染色講習所をおく
- 紡績業深夜業開始
食
- 三田育種『舶果来樹要覧』を刊行
- 摂津能勢で天然炭酸水を利用し平野水の製造を始める
- 大阪師団で白米病といわれる脚気患者多く、麦飯にあらためる
住
- 宮城県古川町で土管により小規模の上水道竣工
文学
- 坪内逍遥訳『自由太刀余波鋭鋒』(じゆうのたちなごりのきれあじ)刊(5月)
- 井上勤訳『狐の裁判』刊(7月)
- 円朝作『怪談牡丹灯籠』刊
その他
- 官吏恩給令制定
- 大阪商船会社開業
- 上野・熊谷間鉄道開通
- 佐久間貞一、活版工組合設立
- 長崎・静岡・宮城県に紡績所創立
- 小坂・十和田鉱山・赤城炭鉱開掘
1884年のポイントまとめ
- 華族令が制定された
明治政府は公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の華族制度を整備し、新たな近代貴族制度を確立しました。 - 秩父事件が発生した
困窮した農民や自由民権運動支持者が蜂起し、政府は武力によって鎮圧を行いました。 - 自由民権運動が大きな転換期を迎えた
秩父事件など激化事件の発生によって、自由民権運動は政府の強い警戒対象となっていきました。 - 内閣制度導入への準備が進められた
伊藤博文を中心に近代国家制度整備が進み、日本は立憲国家体制へ向けた準備を続けました。 - 近代国家形成と社会不安が同時に進んだ年であった
1884年は、政治制度改革が進む一方で、農民困窮や政府への不満も広がった重要な年でした。
1884年は、華族制度整備によって近代国家体制が強化される一方、秩父事件によって社会不安も表面化した年でした。 自由民権運動は転換期を迎え、政府はより強い統制姿勢を見せるようになります。 立憲国家建設が進む一方で、その裏側では国民生活との矛盾も広がり始めていました。
1884年のよくある質問 Q&A
Q. 1884年とはどんな年ですか?
1884年は、華族制度が整備され、 新しい身分秩序が確立された年です。
Q. 華族令とは何ですか?
華族令は、旧公家や大名を基にした貴族制度を定めた法律です。 公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五等級が設けられました。
Q. なぜ華族制度が必要だったのですか?
近代国家として安定した統治体制を築くため、 新しい支配層を形成する必要があったためです。
Q. 秩父事件とは何ですか?
秩父事件は、農民や民権運動家が起こした武装蜂起です。 政府への不満が爆発した出来事でした。
Q. なぜ秩父事件が起きたのですか?
重税や経済的困窮、政治への不満が原因となりました。
Q. なぜ1884年は重要なのですか?
身分制度の再編と社会不安が同時に進み、 近代国家の矛盾が表面化したためです。
Q. 1884年の出来事はその後どうつながりますか?
政治体制の整備が進み、
1889年の憲法制定へとつながります。
→ 1889年(近代国家の完成)を見る
Q. 他に重要な流れはありますか?
政府は民権運動の抑制を強め、 社会の安定を図ろうとしました。
Q. 1884年の重要人物は誰ですか?
伊藤博文、井上馨、板垣退助などが重要人物です。
Q. 1884年は日本にとってどんな意味がありますか?
1884年は、近代国家の社会構造が整う一方で、 その矛盾が表面化した重要な年です。
なぜ明治政府は新しい支配体制を整え始めたのか?
華族令の制定により、日本は近代国家として新たな統治体制を整備していきます。
明治維新からこの年に至るまでの改革と制度整備の流れを時系列で確認できます。
