1864年(元治元年)は、幕末の流れが大きく転換した決定的な年です。
この年、長州藩を中心とする尊王攘夷運動は大きな敗北を喫し、日本の進む方向が大きく変わりました。
京都では禁門の変が起こり、長州藩は敗北。
さらに下関では、欧米列強との戦争に敗れ、攘夷の限界が明らかになります。
つまり1864年は、「攘夷が完全に破綻し、日本が倒幕へ向かい始めた年」といえます。
なぜ攘夷は行き詰まり、流れは変わったのか?
禁門の変や下関戦争により、攘夷の限界が明らかになります。
黒船来航からこの転換に至るまでの幕末の流れを時系列で確認できます。
Q. 1864年は何が起きた?
A. 池田屋事件や禁門の変が起こり、さらに下関で列強と戦争になりました。
Q. なぜ重要なのか?
A. 国内の内戦と外国との戦争が同時に起きたためです。
Q. 新選組は何をした?
A. 池田屋事件で尊王攘夷派を襲撃し、京都の政局に大きく関わりました。
Q. この後どうなる?
A. 幕府と諸藩の対立が深まり、倒幕へと進みます。
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目次
1864年の重要出来事
- 禁門の変が発生し、長州藩は朝敵となった
- 池田屋事件で新選組が尊王攘夷派を襲撃した
- 四国艦隊下関砲撃事件が起こり、長州藩は列強と戦った
- 第一次長州征討が行われ、幕府と長州藩の対立が激化した
- 京都を中心に政局が大きく混乱し、幕末動乱が深まった
この年に始まったこと
1864年(元治元年)は、禁門の変や四国艦隊下関砲撃事件が発生し、長州藩が大きな転換点を迎えた年です。また、新選組の名を全国に知らしめる出来事も起こり、幕末の対立構造が新たな段階へ入りました。
- 第一次長州征討が始まった
禁門の変で朝敵となった長州藩に対し、幕府は第一次長州征討を開始しました。 - 四国艦隊による下関攻撃が始まった
イギリス・フランス・アメリカ・オランダの連合艦隊が下関を攻撃し、長州藩との本格的な軍事衝突が始まりました。 - 新選組による京都治安維持体制が確立された
池田屋事件で尊王攘夷派の計画を阻止し、新選組は京都警備の中心組織としての地位を確立しました。 - 長州藩の藩政改革が始まった
相次ぐ敗北を受けて藩内で改革論が高まり、後の倒幕運動へつながる体制づくりが進み始めました。 - 倒幕へ向かう長州藩の再建が始まった
高杉晋作らを中心に藩の立て直しが進められ、後の薩長同盟や明治維新へつながる動きが始まりました。
1864年は、「長州藩の再出発と新選組の全盛期が始まった年」でした。
この年は何が変わったのか
1864年(元治元年)は、京都を中心に武力衝突が相次ぎ、幕末の政治対立が本格的な戦闘へ発展した年でした。禁門の変や第一次長州征討によって、長州藩と幕府の対立は決定的なものとなっていきます。
池田屋事件によって京都の緊張が高まった
1864年、新選組は京都・池田屋で尊王攘夷派志士を襲撃しました。池田屋事件によって新選組の名は全国に知られるようになり、京都の治安対立はさらに激化していきます。
禁門の変によって長州藩が朝敵となった
長州藩勢力は京都で挙兵しましたが、薩摩藩・会津藩などに敗北しました。これが禁門の変です。この戦いによって長州藩は朝敵とされ、幕府との対立は決定的なものとなりました。
第一次長州征討によって幕府と長州藩が全面対立した
禁門の変後、幕府は長州藩討伐を目的とした第一次長州征討を実施しました。長州藩は一時的に恭順姿勢を示しますが、幕府への反発は内部で強まっていきます。
四国艦隊下関砲撃事件によって攘夷の限界が明らかになった
長州藩による外国船砲撃への報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの連合艦隊が下関を攻撃しました。四国艦隊下関砲撃事件によって、西洋列強の軍事力の圧倒的な差が改めて認識されることになります。
高杉晋作によって長州藩改革が進み始めた
長州藩では高杉晋作らが藩政改革を進め、奇兵隊を中心とした新たな軍事体制が整えられていきました。これが後の倒幕運動の大きな原動力となっていきます。
幕末の対立が武力衝突の時代へ入った
1864年は、政治的対立が本格的な戦争や武力衝突へ変わり始めた年でした。幕府・長州藩・薩摩藩・朝廷・外国勢力が複雑に絡み合い、日本は内戦前夜とも言える状況へ近づいていきます。
この年の重要人物
1864年(元治元年)は、池田屋事件や禁門の変が発生し、京都を舞台に幕府側と長州藩の対立が激化した年です。また、四国艦隊下関砲撃事件によって攘夷の限界が明らかとなり、日本の進路が大きく揺れ動きました。この年を理解するうえで重要な人物を整理します。
- 近藤勇
新選組局長として池田屋事件を指揮しました。尊王攘夷派の計画を阻止し、新選組の名を全国に知らしめました。 - 高杉晋作
四国艦隊による下関砲撃を経験し、攘夷の限界を痛感しました。後の長州藩改革と倒幕運動へつながる転機となった年です。 - 松平容保
会津藩主・京都守護職として京都の治安維持を担いました。禁門の変では幕府側の中心として長州藩と戦いました。 - 西郷隆盛
薩摩藩を代表して京都政局に関与し、禁門の変では会津藩とともに長州藩と戦いました。
出来事・事物起源・話題
- 1月13日
- 島津久光が廟議参与を許される
- 1月24日
- 高杉晋作が長州を脱出する
- 2月6日
- 長門藩が武器の他国流出を厳しく禁止する
- 2月10日
- 松平容保が京都守護職としての精勤を賞されて5万石を加増され、翌日、陸軍総裁となる
- 2月18日
- 島津久光が大砲12門を朝廷に献上する
- 2月20日
- 元治と改元
- 2月22日
- 熊本藩主細川慶順、長岡護久らが連署し、長州処分を寛大にするよう求める
- 3月1日
- 松平慶永が幕府に公武合体を勧告する
- 3月3日
- 島津久光が西郷吉之助に上京を命じる
- 3月16日
- 薩摩藩主島津忠義がイギリスへ注文した軍艦2隻と大砲60門が横浜に到着する
- 3月26日
- 水戸藩士田丸稲之右衛門、藤田小四郎らが脱走し、常陸の筑波山で挙兵する
- 3月29日
- 高杉晋作が萩の野山獄に投じられる
- 4月18日
- 島津久光が今後のことを西郷吉之助に託し、京都を出発して帰藩の途につく
- 5月2日
- 将軍徳川家茂が参内し、江戸帰任の許可を願い出る(同月7日に京都を出発)
- 5月14日
- 勝海舟が軍艦奉行となる
- 5月15日
- 徳川家茂がシーボルトを召し出す
- 5月29日
- 幕府が兵庫に海軍操練所を設置する
- 6月2日
- 勤王家古高俊太郎が京都で同志とともに挙兵を企てるが、新選組に捕らえられる
- 6月5日
- 池田屋事件が起こる(新選組が京都三条の旅館池田屋を襲撃する)
- 6月10日
- 井上聞多と伊藤俊輔が馬関戦争の知らせを受け、留学中のロンドンから帰国する
- 6月14日
- 新島襄が海外渡航の禁を破り、函館からアメリカ商船で密航に成功する
- 6月16日
- 徳川家茂が米15万俵を朝廷に献上する
- 6月22日
- 長州藩家老福原越後が堺町御門の変の名誉回復のため、兵3千を率いて藩地を出発する
- 6月24日
- 久坂玄瑞、眞木保臣らが男山八幡に本陣を置き、勤王討幕の旗を掲げる
- 6月25日
- 井上聞多と伊藤俊輔が山口政治堂に出頭し、時局を論じて攘夷を批判する
- 6月26日
- 長州藩家老国司信濃が桂小五郎らを従え、山口を出発して京都へ向かう
- 7月11日
- 佐久間象山が刺殺される
- 7月14日
- 長州藩家老益田右衛門らの勤王派兵約600名が男山に駐屯する
- 7月19日
- 蛤御門の変が起こる
- 7月21日
- 諸藩の兵が天王山の義挙を攻め、蛤御門の変で長州藩兵は敗れる
- 7月22日
- 幕府第2回遣欧使節が帰国する
- 8月1日
- 将軍徳川家茂が長州親征を布告する
- 8月3日
- 長州藩が福原・国司・益田の三家老に禁固謹慎を命じ、処分を待つ旨を上申する
- 8月5日
- イギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊が馬関海峡への砲撃を開始し、長州藩兵が抗戦する
- 8月5日
- 奥村五百子が男装して馬関の奇兵隊本陣へ使者として到着する
- 8月6日
- イギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊兵が長州に上陸し、諸砲台を破壊する
- 8月8日
- 高杉晋作、杉孫七郎、井上聞多、伊藤俊輔らがイギリス海軍提督と講和会議を行う
- 8月14日
- 長州藩と四国連合艦隊の和議が成立する
- 9月1日
- 幕府が参勤交代を復活させる
- 9月7日
- 水戸藩兵が筑波の義兵と常陸の額田村で戦うが敗走する
- 9月9日
- 朝廷が長州征討の軍を進めるよう命じる
- 9月11日
- 西郷吉之助と勝海舟が大坂で会見する
- 9月25日
- 袖解橋事件が起こり、長州藩士井上聞多が反対派に襲われ瀕死の重傷を負う
- 10月16日
- 幕府が天狗党の乱の罪を問い、水戸藩家老鳥居忠順、大久保忠貞ら49名を処刑する
- 10月18日
- 幕府軍が筑波勢と再び戦い敗れる
- 10月22日
- 大坂城で長州征討の軍議が行われる
- 10月24日
- 長州藩士宍戸左馬之介が堺町御門の変の責任を問われ、野山獄に入る
- 10月25日
- 幕府が諸大名に妻子や一族を江戸へ呼び寄せるよう命じるが、後に守られなくなる
- 10月27日
- 高杉晋作が長州藩を脱出する
- 11月2日
- 高杉晋作が脱藩し福岡へ移る
- 11月3日
- 野村望東尼が高杉晋作をかくまう
- 11月10日
- 幕府が兵庫奉行を設置する
- 11月12日
- 長州藩三家老が切腹する
- 11月15日
- 三条実美ら五卿が長州藩の諸隊士700余人に護衛され、山口から長府へ移る
- 11月18日
- 徳川慶勝が長州三家老の首実検を行う
- 11月27日
- 武田耕雲斎が尊王攘夷派を率いて美濃に入る
- 11月30日
- 武田耕雲斎征討の命が幕府に下る
- 12月3日
- 筑前藩士月形洗蔵らが長府の功山寺に三条実美ら五卿を訪ね、移動を勧める
- 12月11日
- 西郷吉之助が五卿移動の交渉のため、単身で長州に入る
- 12月13日
- 高杉晋作が筑前から長府に戻る
- 12月14日
- 長州藩主毛利敬親が老臣毛利隠岐を征長総督府へ派遣し、謝罪の誓書を提出する
- 12月15日
- 長州藩士高杉晋作らが恭順派の藩政に反抗し、馬関新地の役所を夜襲する
- 12月17日
- 天狗党の乱(筑波山事件)が終結する
天皇
孝明天皇(在位:弘化3年2月13日~慶応2年12月25日)
将軍
徳川家茂[14代](在位:安政5年12月1日~慶応2年8月20日)
生活の話題
食
- 物産所で田中芳男、落花生・菊芋を栽培住
1864年のポイントまとめ
- 池田屋事件で新選組が名を広めた
新選組は京都・池田屋で尊王攘夷派志士を襲撃し、幕府側治安組織として大きな存在感を示しました。 - 禁門の変で長州藩が朝敵となった
長州藩は京都で武力挙兵を行いましたが敗北し、朝廷から朝敵とされました。 - 第一次長州征討が行われた
幕府は長州藩討伐を命じ、幕府と長州藩の対立は決定的なものとなっていきました。 - 四国艦隊下関砲撃事件が発生した
イギリス・フランスなど四国連合艦隊が下関を攻撃し、日本は西洋軍事力の強大さを再認識しました。 - 幕末の政治対立が全面衝突へ進んだ年であった
1864年は、京都政局・外国問題・藩同士の対立が激化し、幕末動乱が大きく加速した年でした。
1864年は、池田屋事件や禁門の変によって京都情勢が大きく揺れ動いた年でした。長州藩は朝敵となり、幕府との対立は決定的になります。 さらに四国艦隊下関砲撃事件によって、日本は西洋列強との軍事力の差を改めて痛感することとなりました。
1864年のよくある質問 Q&A
Q. 1864年とはどんな年ですか?
1864年は、国内の武力衝突と外国との戦争が同時に発生し、 幕末の動乱が頂点に達した年です。
Q. 池田屋事件とは何ですか?
新選組が尊王攘夷派を襲撃した事件で、 京都の政局に大きな影響を与えました。
Q. 禁門の変とは何ですか?
長州藩が京都で武力蜂起し、 幕府側と戦った戦闘です。
Q. 下関戦争とは何ですか?
長州藩の攘夷行動に対し、 イギリス・フランスなど列強が報復攻撃を行った戦争です。
Q. 新選組はどのような役割を果たしましたか?
京都の治安維持を担い、 幕府側の武力として重要な役割を果たしました。
Q. なぜ1864年は重要なのですか?
内戦と対外戦争が同時に発生し、 幕府体制の限界が明らかになったためです。
Q. 日本への影響は何ですか?
外国の軍事力の差が明確となり、 政策の転換が迫られました。
Q. この出来事はその後どうつながりますか?
幕府と諸藩の対立が決定的となり、
倒幕運動が進んでいきます。
→ 1866年へ
Q. 1864年の重要人物は誰ですか?
新選組隊士、長州藩士、幕府関係者などが重要です。
Q. 1864年は日本にとってどんな意味がありますか?
1864年は、幕末の対立が全面衝突となり、 明治維新へ向かう決定的な転換点となった年です。
攘夷から方向転換したあと、幕末はどこへ向かうのか?
各藩は現実的な対応へと舵を切り、やがて倒幕へと流れが変わっていきます。
幕末の転換点から終焉までの流れをあわせて理解できます。

