1862年(文久2年)は、幕末の政治が大きく動き、「公武合体」と「尊王攘夷」が激しくぶつかり始めた転換の年です。
この年、朝廷と幕府の関係を強化するため、和宮降嫁が行われました。
一方で、攘夷思想の高まりの中で外国人殺傷事件(生麦事件)も発生し、日本は内外ともに緊張が高まっていきます。
つまり1862年は、「協調と対立が同時に進み、幕末の混乱が加速した年」といえます。
なぜ外国との衝突は避けられなかったのか?
生麦事件などをきっかけに、外国との緊張は現実の衝突へと発展します。
開国からこの年に至るまでの幕末の流れを時系列で確認できます。
Q. 1862年は何が起きた?
A. 生麦事件が発生し、外国人が殺傷される事件が起きました。
Q. なぜ重要なのか?
A. 外国との対立が一気に激化したためです。
Q. この後どうなる?
A. 1863年に薩英戦争などの武力衝突へと発展します。
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目次
1862年の重要出来事
- 生麦事件が発生し、イギリスとの対立が激化した
- 島津久光が上洛し、薩摩藩の政治的影響力が高まった
- 公武合体運動が進み、幕府改革が模索された
- 尊王攘夷運動が全国へ広がり、社会不安が増大した
- 幕府の統制力が低下し、雄藩主導の流れが強まった
この年に始まったこと
1862年(文久2年)は、幕府が改革を進める一方で、尊王攘夷運動が勢いを増し始めた年です。文久改革や参勤交代制度の見直しなど、江戸時代の仕組みを大きく変える政策が始まりました。
- 文久改革が始まった
幕府は政治・軍事・人事の改革を進めるため、文久改革を開始しました。幕末の幕政改革として重要な位置を占めます。 - 参勤交代の緩和が始まった
諸大名の負担軽減を目的として、参勤交代制度の大幅な緩和が実施されました。 - 京都守護職が設置された
京都の治安維持と朝廷警護を目的として京都守護職が新設され、会津藩主・松平容保が任命されました。 - 幕府による京都重視の政治体制が始まった
政治の中心が江戸だけでなく京都にも移り始め、朝廷との連携を重視する体制が強化されました。 - 生麦事件を契機とする薩英対立が始まった
生麦事件の発生により、薩摩藩とイギリスの関係が悪化し、翌年の薩英戦争へつながる流れが始まりました。
1862年は、「幕府改革と京都政治の時代が始まった年」でした。
この年は何が変わったのか
1862年(文久2年)は、尊王攘夷運動がさらに激化し、幕府と諸藩、そして外国との対立が深まった年でした。生麦事件の発生によって日本とイギリスの緊張も高まり、幕末の混乱は全国規模へ広がっていきます。
和宮降嫁によって公武合体が進められた
孝明天皇の妹・和宮が14代将軍徳川家茂へ降嫁し、公武合体政策が本格的に進められました。幕府は朝廷との結びつきを強めることで、低下した権威の回復を図ろうとします。
生麦事件によって外国との対立が深刻化した
1862年、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件が発生しました。この事件によって日本とイギリスの関係は急速に悪化し、後の薩英戦争へつながっていきます。
島津久光によって薩摩藩の影響力が高まった
薩摩藩では島津久光が政治の中心として存在感を強めました。公武合体を進めながらも幕政改革を求め、薩摩藩は幕末政局を動かす有力勢力となっていきます。
文久の改革によって幕府改革が進められた
幕府は政治立て直しのため文久の改革を実施しました。参勤交代の緩和などが行われましたが、幕府の求心力低下を止めるまでには至りませんでした。
尊王攘夷運動がさらに過激化した
外国勢力への反発や幕府への不満から、尊王攘夷派の活動はさらに活発化しました。京都では過激な志士たちの活動も増え、政局は次第に不安定さを増していきます。
京都が政治の中心として緊張を高めていった
朝廷の政治的影響力が高まる中で、京都は幕末政治の中心地となっていきました。幕府・諸藩・尊王攘夷派が入り乱れ、日本の政治情勢は急速に混迷を深めていきます。
この年の重要人物
1862年(文久2年)は、島津久光の上洛によって幕政改革が進められ、将軍後見職や政事総裁職が設置された年です。また、生麦事件が発生し、日本とイギリスの関係が緊張するなど、幕末政局が大きく動きました。この年を理解するうえで重要な人物を整理します。
- 島津久光
薩摩藩の実力者として上洛し、幕政改革を主導しました。文久の改革を実現し、幕末政治の中心人物として存在感を高めました。 - 徳川慶喜
将軍後見職に就任し、幕政改革の中心を担いました。後の江戸幕府最後の将軍となる人物です。 - 松平慶永(松平春嶽)
政事総裁職に就任し、幕府改革を推進しました。公武合体派の代表的人物として活躍しました。 - 奈良原喜八郎
生麦事件でイギリス人を殺傷した薩摩藩士の一人です。この事件は翌年の薩英戦争へ発展するきっかけとなりました。
出来事・事物起源・話題
- 2月5日
- 毛利慶親が老中久世広周と会見し、公武合体と幕府改革について意見を述べる
- 2月11日
- 和宮親子内親王が将軍徳川家茂に御降嫁される
- 2月12日
- 流罪となっていた西郷吉之助が赦免され、奄美大島から鹿児島へ帰る
- 2月18日
- 将軍徳川家茂が和宮との婚儀を祝い、諸大名を招いて祝宴を開く
- 3月13日
- 西郷吉之助が島津久光から過激派の鎮撫を命じられ、鹿児島を出発して大坂へ向かう
- 3月16日
- 島津久光が鹿児島を出発し上京する
- 3月24日
- 坂本龍馬が土佐藩を脱藩する
- 4月9日
- 大久保一蔵が西郷吉之助を訪ね、島津久光の激怒を伝える
- 4月11日
- 安藤信正が坂下門外の変以後の責任を取り、老中職を辞任する
- 4月12日
- アメリカ公使ハリスが帰国する
- 4月16日
- 島津久光が兵を率いて京都に入り、近衛忠房に公武合体・皇威振興・幕政改革を建言する
- 4月23日
- 寺田屋騒動(薩摩藩尊王派の粛清事件)
- 5月7日
- 寺田屋騒動の関係者らが日向国細島で処刑される
- 5月10日
- 三条実美が島津久光の建言を採用し、内政改革と外国勢力への対応を朝廷に提案する
- 5月18日
- 蕃書調所を一ツ橋門外へ移し、洋書調所と改称する
- 5月22日
- 勅使大原重徳が京都を出発し、島津久光も朝命により同行する
- 6月1日
- 将軍徳川家茂が各藩に政治改革を命じる
- 6月10日
- 勅使大原重徳が江戸に下り、徳川慶喜を将軍後見職、松平慶永を政務総裁職とする朝命を伝える
- 6月11日
- 澤太郎左衛門、伊東玄朴、林研海らが幕府からオランダ留学を命じられる
- 6月12日
- 眞木保臣が発明家田中儀右衛門を久留米藩主に紹介する
- 6月18日
- 勅使大原重徳が江戸城で老中らと会見し、徳川慶喜を将軍後見職とする勅命を伝える
- 7月1日
- 徳川家茂が勅使に回答する
- 7月6日
- 横井小楠が松平春嶽に招かれて江戸に到着し、幕政改革を提言する
- 7月17日
- 勤王家の眞木保臣が久留米で幽閉される
- 8月1日
- 京都守護職が設置され、会津藩主松平容保が任命される
- 8月9日
- 島津久光が勅使補佐の任務を終えて帰京し、天盃と太刀を賜る
- 8月19日
- 幕府がイギリス公使に対し、琉球は日本の領土であると回答する
- 8月21日
- 生麦事件(島津久光の行列を横切ったイギリス人が殺傷される)
- 8月22日
- 幕府が参勤交代制度を緩和する
- 8月22日
- 幕府の遣欧使節がロシアで初めて銀行を見学する
- 8月26日
- 小笠原諸島へ最初の移民が送られる
- 8月27日
- 幕府が弓組を廃止し、鉄砲組を設置する
- 9月10日
- 幕府が榎本武揚、西周らを欧州へ留学させる
- 9月30日
- 徳川慶喜が幕議で開国論を主張する
- 10月4日
- 朝廷が毛利慶親に参内を命じ、天盃を賜る
- 10月13日
- 勝海舟がイギリス製蒸気船順動丸を神奈川で受領する
- 10月18日
- 将軍通行時の窓戸閉鎖の制度が廃止される
- 10月20日
- 幕府が開国方針から攘夷方針へ転換する
- 10月22日
- 徳川慶喜が将軍後見職の辞表を提出する
- 10月22日
- 幕府が山陵奉行を新設し、歴代天皇・皇族の陵墓調査を開始する
- 10月27日
- 勅使三条実美らが品川に到着し、幕府は丁重な礼をもって迎える
- 11月12日
- 高杉晋作らによる外国公使館襲撃事件が発生する
- 11月15日
- 徳川慶喜が再び辞表を提出する
- 11月27日
- 三条実美、姉小路公知ら勅使が江戸城に入る
- 11月28日
- 幕府が朝命により、安政の大獄や桜田門外の変で処罰された者たちを赦免する
- 12月9日
- 朝廷に新たに国事掛が設置される
- 12月11日
- 徳川慶喜の上京に武田耕雲斎が同行する
- 12月13日
- 品川御殿山のイギリス公使館が高杉晋作、伊藤俊輔らによって焼き討ちされる
- 12月18日
- 幕府が陸軍総裁と海軍総裁を新設する
- 12月19日
- 横井小楠が佐幕派に襲われるが一命を取り留める
- 12月29日
- 佐久間象山の蟄居処分が解除される
天皇
孝明天皇(在位:弘化3年2月13日~慶応2年12月25日)
将軍
徳川家茂[14代](在位:安政5年12月1日~慶応2年8月20日)
生活の話題
食
- 幕府穀菜の種子64品をアメリカより輸入
- 伊勢人大谷嘉兵衛製茶貿易店を横浜に開く
住
- 品川御殿山に洋風木造二階建の英国公使館たつ
1862年のポイントまとめ
- 生麦事件が発生し、対外関係が緊張した
薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件によって、日本とイギリスの関係は急速に悪化しました。 - 島津久光が幕政改革へ大きな影響を与えた
薩摩藩の島津久光が上洛し、幕府に対して政治改革を求める動きを強めました。 - 公武合体政策がさらに進められた
和宮降嫁が実現し、幕府は朝廷との協調による政権維持を目指しました。 - 尊王攘夷運動が全国へ広がった
外国勢力への反発や幕府批判が強まり、各地で尊王攘夷思想が勢いを増していきました。 - 幕府中心の政治体制が揺らぎ始めた年であった
薩摩藩をはじめ有力藩の発言力が強まり、幕府の権威低下がより明確になっていきました。
1862年は、生麦事件による外交問題と、島津久光による政治改革の動きが注目された年でした。尊王攘夷運動も拡大し、日本国内の緊張はさらに高まっていきます。 幕府だけでは政治を支えきれなくなり、幕末動乱は新たな段階へ進み始めていました。
1862年のよくある質問 Q&A
Q. 1862年とはどんな年ですか?
1862年は、生麦事件により外国との対立が激化し、 同時に幕府改革も進められた年です。
Q. 生麦事件とは何ですか?
薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件で、 日本とイギリスの関係を悪化させました。
Q. なぜ事件が起きたのですか?
外国人と日本側の慣習の違いにより、 衝突が発生したためです。
Q. 文久の改革とは何ですか?
幕府が政治体制の立て直しを図るために行った改革で、 人材登用などが進められました。
Q. なぜ1862年は重要なのですか?
外国との対立と国内改革が同時に進み、 幕末の緊張が高まったためです。
Q. 1862年の出来事はその後どうつながりますか?
外国との武力衝突が起こり、
幕末の動乱がさらに激化します。
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Q. 日本社会への影響は何ですか?
尊王攘夷運動が勢いを増し、 政治の混乱が拡大しました。
Q. 1862年の重要人物は誰ですか?
島津久光や幕府改革派の人物が重要です。
Q. 1862年は日本にとってどんな意味がありますか?
1862年は、対外関係と内政の両面で 幕末の緊張がピークに向かう重要な年です。
外国との衝突は、なぜさらに激しい対立へと進んでいくのか?
事件を契機に攘夷運動は一層激化し、幕末の緊張は頂点へと向かっていきます。
その後の激動の流れをあわせて理解できます。

