1862年(文久2年)の出来事

生麦事件と攘夷の激化

今から164年前の出来事

この年の位置づけ

尊王攘夷の激化

生麦事件などが発生し、外国との対立が激しくなりました。薩摩藩や長州藩など雄藩の動きも活発化していきます。

1862年(文久2年)は、幕末の政治が大きく動き、「公武合体」と「尊王攘夷」が激しくぶつかり始めた転換の年です。

この年、朝廷と幕府の関係を強化するため、和宮降嫁が行われました。
一方で、攘夷思想の高まりの中で外国人殺傷事件(生麦事件)も発生し、日本は内外ともに緊張が高まっていきます。

つまり1862年は、「協調と対立が同時に進み、幕末の混乱が加速した年」といえます。

まず全体を把握

なぜ外国との衝突は避けられなかったのか?

生麦事件などをきっかけに、外国との緊張は現実の衝突へと発展します。
開国からこの年に至るまでの幕末の流れを時系列で確認できます。

幕末の流れを一気に理解する →
1862年のポイントQ&A

Q. 1862年は何が起きた?
A. 生麦事件が発生し、外国人が殺傷される事件が起きました。

Q. なぜ重要なのか?
A. 外国との対立が一気に激化したためです。

Q. この後どうなる?
A. 1863年に薩英戦争などの武力衝突へと発展します。
1863年へ

1862年の重要出来事

  • 生麦事件が発生し、イギリスとの対立が激化した
  • 島津久光が上洛し、薩摩藩の政治的影響力が高まった
  • 公武合体運動が進み、幕府改革が模索された
  • 尊王攘夷運動が全国へ広がり、社会不安が増大した
  • 幕府の統制力が低下し、雄藩主導の流れが強まった

この年に始まったこと

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1862年(文久2年)は、幕府が改革を進める一方で、尊王攘夷運動が勢いを増し始めた年です。文久改革や参勤交代制度の見直しなど、江戸時代の仕組みを大きく変える政策が始まりました。

  • 文久改革が始まった
    幕府は政治・軍事・人事の改革を進めるため、文久改革を開始しました。幕末の幕政改革として重要な位置を占めます。
  • 参勤交代の緩和が始まった
    諸大名の負担軽減を目的として、参勤交代制度の大幅な緩和が実施されました。
  • 京都守護職が設置された
    京都の治安維持と朝廷警護を目的として京都守護職が新設され、会津藩主・松平容保が任命されました。
  • 幕府による京都重視の政治体制が始まった
    政治の中心が江戸だけでなく京都にも移り始め、朝廷との連携を重視する体制が強化されました。
  • 生麦事件を契機とする薩英対立が始まった
    生麦事件の発生により、薩摩藩とイギリスの関係が悪化し、翌年の薩英戦争へつながる流れが始まりました。

1862年は、「幕府改革と京都政治の時代が始まった年」でした。

この年は何が変わったのか

1862年(文久2年)は、尊王攘夷運動がさらに激化し、幕府と諸藩、そして外国との対立が深まった年でした。生麦事件の発生によって日本とイギリスの緊張も高まり、幕末の混乱は全国規模へ広がっていきます。

和宮降嫁によって公武合体が進められた

孝明天皇の妹・和宮が14代将軍徳川家茂へ降嫁し、公武合体政策が本格的に進められました。幕府は朝廷との結びつきを強めることで、低下した権威の回復を図ろうとします。

生麦事件によって外国との対立が深刻化した

1862年、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件が発生しました。この事件によって日本とイギリスの関係は急速に悪化し、後の薩英戦争へつながっていきます。

島津久光によって薩摩藩の影響力が高まった

薩摩藩では島津久光が政治の中心として存在感を強めました。公武合体を進めながらも幕政改革を求め、薩摩藩は幕末政局を動かす有力勢力となっていきます。

文久の改革によって幕府改革が進められた

幕府は政治立て直しのため文久の改革を実施しました。参勤交代の緩和などが行われましたが、幕府の求心力低下を止めるまでには至りませんでした。

尊王攘夷運動がさらに過激化した

外国勢力への反発や幕府への不満から、尊王攘夷派の活動はさらに活発化しました。京都では過激な志士たちの活動も増え、政局は次第に不安定さを増していきます。

京都が政治の中心として緊張を高めていった

朝廷の政治的影響力が高まる中で、京都は幕末政治の中心地となっていきました。幕府・諸藩・尊王攘夷派が入り乱れ、日本の政治情勢は急速に混迷を深めていきます。

この年の重要人物

1862年(文久2年)は、島津久光の上洛によって幕政改革が進められ、将軍後見職や政事総裁職が設置された年です。また、生麦事件が発生し、日本とイギリスの関係が緊張するなど、幕末政局が大きく動きました。この年を理解するうえで重要な人物を整理します。

  • 島津久光
    薩摩藩の実力者として上洛し、幕政改革を主導しました。文久の改革を実現し、幕末政治の中心人物として存在感を高めました。
  • 徳川慶喜
    将軍後見職に就任し、幕政改革の中心を担いました。後の江戸幕府最後の将軍となる人物です。
  • 松平慶永(松平春嶽)
    政事総裁職に就任し、幕府改革を推進しました。公武合体派の代表的人物として活躍しました。
  • 奈良原喜八郎
    生麦事件でイギリス人を殺傷した薩摩藩士の一人です。この事件は翌年の薩英戦争へ発展するきっかけとなりました。

出来事・事物起源・話題

2月5日
毛利慶親が老中久世広周と会見し、公武合体と幕府改革について意見を述べる
2月11日
和宮親子内親王が将軍徳川家茂に御降嫁される
2月12日
流罪となっていた西郷吉之助が赦免され、奄美大島から鹿児島へ帰る
2月18日
将軍徳川家茂が和宮との婚儀を祝い、諸大名を招いて祝宴を開く
3月13日
西郷吉之助が島津久光から過激派の鎮撫を命じられ、鹿児島を出発して大坂へ向かう
3月16日
島津久光が鹿児島を出発し上京する
3月24日
坂本龍馬が土佐藩を脱藩する
4月9日
大久保一蔵が西郷吉之助を訪ね、島津久光の激怒を伝える
4月11日
安藤信正が坂下門外の変以後の責任を取り、老中職を辞任する
4月12日
アメリカ公使ハリスが帰国する
4月16日
島津久光が兵を率いて京都に入り、近衛忠房に公武合体・皇威振興・幕政改革を建言する
4月23日
寺田屋騒動(薩摩藩尊王派の粛清事件)
5月7日
寺田屋騒動の関係者らが日向国細島で処刑される
5月10日
三条実美が島津久光の建言を採用し、内政改革と外国勢力への対応を朝廷に提案する
5月18日
蕃書調所を一ツ橋門外へ移し、洋書調所と改称する
5月22日
勅使大原重徳が京都を出発し、島津久光も朝命により同行する
6月1日
将軍徳川家茂が各藩に政治改革を命じる
6月10日
勅使大原重徳が江戸に下り、徳川慶喜を将軍後見職、松平慶永を政務総裁職とする朝命を伝える
6月11日
澤太郎左衛門、伊東玄朴、林研海らが幕府からオランダ留学を命じられる
6月12日
眞木保臣が発明家田中儀右衛門を久留米藩主に紹介する
6月18日
勅使大原重徳が江戸城で老中らと会見し、徳川慶喜を将軍後見職とする勅命を伝える
7月1日
徳川家茂が勅使に回答する
7月6日
横井小楠が松平春嶽に招かれて江戸に到着し、幕政改革を提言する
7月17日
勤王家の眞木保臣が久留米で幽閉される
8月1日
京都守護職が設置され、会津藩主松平容保が任命される
8月9日
島津久光が勅使補佐の任務を終えて帰京し、天盃と太刀を賜る
8月19日
幕府がイギリス公使に対し、琉球は日本の領土であると回答する
8月21日
生麦事件(島津久光の行列を横切ったイギリス人が殺傷される)
8月22日
幕府が参勤交代制度を緩和する
8月22日
幕府の遣欧使節がロシアで初めて銀行を見学する
8月26日
小笠原諸島へ最初の移民が送られる
8月27日
幕府が弓組を廃止し、鉄砲組を設置する
9月10日
幕府が榎本武揚、西周らを欧州へ留学させる
9月30日
徳川慶喜が幕議で開国論を主張する
10月4日
朝廷が毛利慶親に参内を命じ、天盃を賜る
10月13日
勝海舟がイギリス製蒸気船順動丸を神奈川で受領する
10月18日
将軍通行時の窓戸閉鎖の制度が廃止される
10月20日
幕府が開国方針から攘夷方針へ転換する
10月22日
徳川慶喜が将軍後見職の辞表を提出する
10月22日
幕府が山陵奉行を新設し、歴代天皇・皇族の陵墓調査を開始する
10月27日
勅使三条実美らが品川に到着し、幕府は丁重な礼をもって迎える
11月12日
高杉晋作らによる外国公使館襲撃事件が発生する
11月15日
徳川慶喜が再び辞表を提出する
11月27日
三条実美、姉小路公知ら勅使が江戸城に入る
11月28日
幕府が朝命により、安政の大獄や桜田門外の変で処罰された者たちを赦免する
12月9日
朝廷に新たに国事掛が設置される
12月11日
徳川慶喜の上京に武田耕雲斎が同行する
12月13日
品川御殿山のイギリス公使館が高杉晋作、伊藤俊輔らによって焼き討ちされる
12月18日
幕府が陸軍総裁と海軍総裁を新設する
12月19日
横井小楠が佐幕派に襲われるが一命を取り留める
12月29日
佐久間象山の蟄居処分が解除される

天皇

孝明天皇(在位:弘化3年2月13日~慶応2年12月25日)

将軍

徳川家茂[14代](在位:安政5年12月1日~慶応2年8月20日)

生活の話題

  • 幕府穀菜の種子64品をアメリカより輸入
  • 伊勢人大谷嘉兵衛製茶貿易店を横浜に開く

  • 品川御殿山に洋風木造二階建の英国公使館たつ

1862年のポイントまとめ

  • 生麦事件が発生し、対外関係が緊張した
    薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件によって、日本とイギリスの関係は急速に悪化しました。
  • 島津久光が幕政改革へ大きな影響を与えた
    薩摩藩の島津久光が上洛し、幕府に対して政治改革を求める動きを強めました。
  • 公武合体政策がさらに進められた
    和宮降嫁が実現し、幕府は朝廷との協調による政権維持を目指しました。
  • 尊王攘夷運動が全国へ広がった
    外国勢力への反発や幕府批判が強まり、各地で尊王攘夷思想が勢いを増していきました。
  • 幕府中心の政治体制が揺らぎ始めた年であった
    薩摩藩をはじめ有力藩の発言力が強まり、幕府の権威低下がより明確になっていきました。

1862年は、生麦事件による外交問題と、島津久光による政治改革の動きが注目された年でした。尊王攘夷運動も拡大し、日本国内の緊張はさらに高まっていきます。 幕府だけでは政治を支えきれなくなり、幕末動乱は新たな段階へ進み始めていました。

1862年のよくある質問 Q&A

Q. 1862年とはどんな年ですか?

1862年は、生麦事件により外国との対立が激化し、 同時に幕府改革も進められた年です。

Q. 生麦事件とは何ですか?

薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件で、 日本とイギリスの関係を悪化させました。

Q. なぜ事件が起きたのですか?

外国人と日本側の慣習の違いにより、 衝突が発生したためです。

Q. 文久の改革とは何ですか?

幕府が政治体制の立て直しを図るために行った改革で、 人材登用などが進められました。

Q. なぜ1862年は重要なのですか?

外国との対立と国内改革が同時に進み、 幕末の緊張が高まったためです。

Q. 1862年の出来事はその後どうつながりますか?

外国との武力衝突が起こり、 幕末の動乱がさらに激化します。
1863年へ

Q. 日本社会への影響は何ですか?

尊王攘夷運動が勢いを増し、 政治の混乱が拡大しました。

Q. 1862年の重要人物は誰ですか?

島津久光や幕府改革派の人物が重要です。

Q. 1862年は日本にとってどんな意味がありますか?

1862年は、対外関係と内政の両面で 幕末の緊張がピークに向かう重要な年です。

次に読むなら

外国との衝突は、なぜさらに激しい対立へと進んでいくのか?

事件を契機に攘夷運動は一層激化し、幕末の緊張は頂点へと向かっていきます。
その後の激動の流れをあわせて理解できます。

幕末の転換点をまとめて確認する →

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幕末年表から、この年の前後をたどる

黒船来航から大政奉還まで、幕末の流れを時系列で整理しています。

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