1861年(文久元年)は、幕末の政治と外交が大きく動き出した年です。
この年、幕府は朝廷との関係修復を図る「公武合体」を進める一方で、外国との緊張も高まり、対馬事件のような国際問題にも直面しました。
また、長崎製鉄所の開所や洋式病院の設立など、西洋技術の導入も進み、日本は近代国家へと歩み始めます。
つまり1861年は、「幕府体制の立て直し」と「近代化の胎動」が同時に進んだ重要な年といえます。
なぜ幕末の対立は収束せず、続いていくのか?
開国後の混乱は収まらず、政治と社会の対立は継続していきます。
黒船来航からこの年に至るまでの幕末の流れを時系列で確認できます。
Q. 1861年は何が起きた?
A. 和宮が将軍徳川家茂に嫁ぎ、公武合体が進められました。
Q. なぜ重要なのか?
A. 幕府と朝廷が協力して政権を維持しようとしたためです。
Q. この後どうなる?
A. 攘夷運動が激化し、再び対立が深まります。
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目次
1861年の重要出来事
- 公武合体政策が進められ、幕府と朝廷の協調が図られた
- 和宮降嫁が進められ、朝廷と幕府の結び付きが強化された
- ロシア軍艦対馬占領事件が発生し、対外危機が高まった
- 尊王攘夷運動が各地で広がり、幕府批判が強まった
- 長州藩・薩摩藩など雄藩の発言力がさらに高まった
この年に始まったこと
1861年(文久元年)は、桜田門外の変後の混乱を収めるため、幕府が朝廷との関係強化を進め始めた年です。後の公武合体政策や和宮降嫁へつながる新たな政治体制が動き出しました。
- 公武合体政策が本格的に始まった
幕府は朝廷との協調によって政治の安定を図る方針を強め、公武合体政策を本格的に推進し始めました。 - 和宮降嫁計画が始まった
孝明天皇の妹・和宮親子内親王を将軍徳川家茂へ降嫁させる計画が進められ、朝幕関係の強化が図られました。 - 文久改革への準備が始まった
幕府は政治改革や人事刷新を進め、翌年以降の文久改革へつながる体制整備を開始しました。 - 幕府による朝廷重視の政治運営が始まった
従来の幕府主導から、朝廷の意向を重視する政治体制への転換が進み始めました。 - 公武一体による政局安定化への取り組みが始まった
尊王攘夷運動の高まりに対応するため、幕府と朝廷の協力関係構築が重要な政治課題となりました。
1861年は、「公武合体の時代が本格的に始まった年」でした。
この年は何が変わったのか
1861年(文久元年)は、幕府が朝廷との関係強化を進める一方で、尊王攘夷運動がさらに拡大していった年でした。外国問題と国内政治の混乱が重なり、幕末の不安定さは一段と深まっていきます。
公武合体政策が本格的に進み始めた
幕府は低下した権威を立て直すため、朝廷との関係強化を進めました。将軍と皇室を結びつける公武合体政策は、幕府体制維持の重要な柱となっていきます。
和宮降嫁へ向けた動きが進んだ
孝明天皇の妹・和宮を14代将軍徳川家茂へ降嫁させる計画が進められました。これは朝廷と幕府の結びつきを強化する大きな政治政策であり、幕末政局に大きな影響を与えていきます。
尊王攘夷運動が全国へ広がっていった
外国との条約や開国政策への不満から、尊王攘夷思想はさらに拡大しました。特に長州藩や水戸藩を中心に攘夷論が強まり、幕府批判の動きも活発化していきます。
外国船警備と海防問題が重要課題となった
欧米列強との緊張が続く中、幕府や各藩では沿岸防備や軍備強化が急がれました。西洋式兵器や軍艦の導入も進み、日本は近代軍事体制への転換を進め始めます。
ロシア軍艦対馬占領事件によって外国脅威が強まった
1861年にはロシア軍艦が対馬へ進出するロシア軍艦対馬占領事件が発生しました。外国勢力による直接的な圧力に、日本国内では危機感がさらに高まっていきます。
幕末政治の混乱がさらに深刻化した
開国問題、朝廷との関係、攘夷運動の拡大などが重なり、幕府政治はますます不安定化していきました。1861年は、後の倒幕運動や内戦へつながる緊張が強まった一年でした。
この年の重要人物
1861年(文久元年)は、桜田門外の変後の混乱が続く中で、公武合体政策が本格的に進められた年です。和宮降嫁が決定し、幕府と朝廷の関係強化が図られる一方、尊王攘夷運動も広がり始めました。幕末政治の新たな局面を迎えたこの年を理解するうえで重要な人物を整理します。
- 和宮親子内親王
孝明天皇の妹です。幕府と朝廷の関係強化を目的とする和宮降嫁が決定し、公武合体政策の象徴的存在となりました。 - 孝明天皇
公武合体を支持しながらも攘夷を強く望みました。幕末政治における朝廷の発言力を高めた中心人物です。 - 徳川家茂
江戸幕府第14代将軍です。和宮との婚姻を通じて幕府と朝廷の結び付きを強化しようとしました。
出来事・事物起源・話題
- 2月18日
- 水戸藩士大津彦五郎が、藩主徳川斉昭の名誉回復を図って尊王攘夷派の同志を集めるが失敗し、自ら罪を負って自首する
- 2月19日
- 文久と改元
- 3月28日
- 長崎製鉄所の開所式が行われる(オランダから機械を導入した製鉄・造船施設で、現在の長崎造船所の前身)
- 4月3日
- 幕府が開港拒否を決定する
- 4月12日
- ロシア軍艦が対馬に来航し占拠を試みる(対馬事件)
- 5月23日
- 長井雅楽が三条実美に建白書を提出し、時局について意見を述べる
- 5月28日
- 外国人排斥を唱える水戸浪士らが品川東禅寺のイギリス公使館を襲撃し、双方に死傷者が出る
- 6月3日
- 伊東玄朴が麻酔薬を用いた脚の切断手術を行う
- 6月19日
- 幕府が庶民による大型船建造を認め、外国船の購入も許可する
- 7月2日
- 長州藩士長井雅楽が老中久世広周と会見し、公武合体論を説く
- 7月11日
- 品川御殿山に各国の公使館が建設される
- 7月26日
- 桜田門外の変に参加した水戸浪士の金子孫二郎らが処刑される
- 8月3日
- 長井雅楽が老中安藤信正と会見し、公武合体論を説く
- 8月11日
- 佐賀藩主鍋島直正が藩で鋳造した大砲3門を幕府へ献上する
- 8月22日
- アメリカ公使ハリスが老中安藤信正と会見し、公使館設置について協議する
- 8月23日
- 幕府がロシア軍艦に対馬からの退去を要求する
- 9月20日
- 長崎に日本初の洋式病院が開設される
- 9月22日
- 幕府がイギリス・アメリカ・フランス・ロシアの4か国公使と下関海峡砲撃事件の賠償金300万ドルを約束する
- 10月13日
- 長州藩主毛利慶親が幕府に建言するため萩を出発し江戸へ向かう
- 10月20日
- 和宮親子内親王が将軍徳川家茂との御降嫁のため京都御所を御出発され、江戸へ向かわれる
- 10月25日
- 伊東玄朴の種痘所が幕府直轄となり、西洋医学所と改称される(東京大学医学部の前身)
- 11月5日
- アメリカ総領事ハリスが将軍徳川家茂に謁見し、開港延期の了承を得る
- 11月15日
- 和宮親子内親王が江戸の清水邸に御到着される
- 11月15日
- 清川八郎が京都を出発し九州へ向かう
- 12月3日
- 水野忠徳が伊豆諸島視察に出発する
- 12月8日
- 毛利慶親が幕府へ建白書を提出し、公武合体による国威発揚を訴える
- 12月9日
- 清川八郎が太宰府で眞木保臣を訪ね、国事について語り合う
- 12月14日
- 幕府の詰問使岩倉らが京都へ帰る
- 12月19日
- 幕府の咸臨丸が小笠原諸島統治のため父島に到着し、日本領であることを示す
- 12月22日
- 開港問題交渉のため、遣欧使節竹内保徳らがイギリス軍艦で江戸湾を出発する
- 12月30日
- 長井雅楽が老中久世広周と時勢について議論する
- 12月30日
- 幕府が毛利慶親に公武周旋を依頼する
天皇
孝明天皇(在位:弘化3年2月13日~慶応2年12月25日)
将軍
徳川家茂[14代](在位:安政5年12月1日~慶応2年8月20日)
生活の話題
その他
- 幕府肥前鮑浦に製鉄所を開く、後の長崎造船所
1861年のポイントまとめ
- 和宮降嫁による公武合体政策が進められた
幕府は朝廷との関係強化を図るため、孝明天皇の妹・和宮を徳川家茂へ降嫁させる方針を進めました。 - 幕府が朝廷との協調による政権維持を目指した
尊王攘夷運動の拡大に対応するため、公武合体政策が幕府の重要方針となっていきました。 - ロシア軍艦対馬占領事件が発生した
ロシア軍艦が対馬へ駐留し、日本は列強の圧力と領土問題への危機感を強めました。 - 外国勢力への警戒が全国で高まった
欧米列強の接近によって、攘夷思想や海防強化への関心がさらに広がっていきました。 - 幕府の求心力低下が徐々に進んだ年であった
外交問題と国内対立が重なり、幕府は次第に統制力を失い始めていました。
1861年は、公武合体政策によって幕府が政権維持を図る一方、外国勢力への危機感が高まった年でした。和宮降嫁や対馬問題は、幕末日本が抱えていた政治・外交両面の不安を象徴しています。 幕府は安定を目指しましたが、幕末動乱はさらに深まっていくことになりました。
1861年のよくある質問 Q&A
Q. 1861年とはどんな年ですか?
1861年は、和宮降嫁により 幕府と朝廷の関係を強化する 公武合体政策が進められた年です。
Q. 和宮降嫁とは何ですか?
皇女・和宮が将軍徳川家茂に嫁いだ出来事で、 朝廷と幕府の結びつきを強める目的がありました。
Q. 公武合体とは何ですか?
幕府(武)と朝廷(公)が協力して 政治を安定させようとする政策です。
Q. なぜこの政策が必要だったのですか?
幕府の権威が低下し、 政治の安定が求められていたためです。
Q. なぜ1861年は重要なのですか?
幕府が体制維持のために 新たな政治戦略を取った転換点だからです。
Q. この出来事はその後どうつながりますか?
一時的に安定したものの、
攘夷運動が激化し再び混乱が深まります。
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Q. 日本社会への影響は何ですか?
幕府の延命策として期待されましたが、 根本的な解決にはなりませんでした。
Q. 1861年の重要人物は誰ですか?
和宮、徳川家茂、幕府指導者たちが重要人物です。
Q. 1861年は日本にとってどんな意味がありますか?
1861年は、幕府が体制維持を図ったものの、 最終的には崩壊へ向かう過程の一段階となった年です。
続く対立は、やがてどのように爆発していくのか?
攘夷運動の高まりや各地の衝突を経て、幕末の動乱はさらに激化していきます。
その後の重要な転換点をあわせて理解できます。

