秋山真之の経歴(官歴)
大正7年に発行された『秋山眞之七七日忌念写真帖』及び昭和8年に秋山眞之会より発行された伝記『秋山眞之』より、秋山真之の経歴をまとめました。
秋山真之の経歴
1868年(慶応4年・明治元年)
- 3月20日
- 父・秋山久敬と母貞の五男として誕生
1875年(明治8年)
- 勝山小学校に入校
1879年(明治12年)
- 松山中学校に入校
1880年(明治13年)
- 近所で花火を上げ、警察に検挙される
1881年(明治14年)
- この頃、歌人井出正雄に就いて和歌を学ぶ
1883年(明治16年)
- 6月
- 正岡子規が上京
- 兄・好古のおかげで真之も上京、共立学校に入校
1884年(明治17年)
- 東京大学予備門に合格入校
1885年(明治18年)
- この頃、兄・好古の下宿を出て、神田猿楽町に子規と下宿する(真之が出た後に、兄・好古の家に下宿したのは白川義則)
官歴
1886年(明治19年)
- 東京大学予備門を退学する
- 10月30日
- 築地の海軍兵学校に入校(17期生)
1887年(明治20年)
- 7月25日
- 学術優等に付英和辞典一冊、操出鉛筆一本授与する
1888年(明治21年)
- 7月16日
- 学術優等に付き短剣一腰授与する
1889年(明治22年)
- 7月19日
- 学術優等に付き優等章を授与する
1890年(明治23年)
- 7月17日
- 海軍兵学校を首席で卒業
海軍少尉候補生、 実地訓練の為、「比叡」乗組 - 12月19日
- 父・久敬没
1891年(明治24年)
- 5月23日
- トルコ国皇帝陛下贈与救難章受領、佩用充許
- 6月4日
- 「比叡」乗組を解き、「高千穂」乗組
1892年(明治25年)
- 5月23日
- 海軍少尉、「龍驤」分隊士
- 7月6日
- 叙正八位
1893年(明治26年)
- 4月25日
- 本職を解き、「松島」航海士
- 6月1日
- イギリスにて製造の軍艦「吉野」の回航委員に命ぜられる
- 6月7日
- イギリスへ出張、「吉野」分隊士
1894年(明治27年)
- 4月23日
- 本職を解き、「筑紫」航海士
- 8月
- 日清戦争勃発
- 9月
- 黄海海戦
- 12月30日
- 大宴会で仁礼景一と大格闘をし、前歯3本を折られる
- 12月31日
- 大人気なかったと反省し、仁礼を訪ね謝罪する
1895年(明治28年)
- 4月
- 日清講和条約調印
- 7月29日
- 本職を解き、「和泉」分隊士
- 11月18日
- 本職を解き、「大島」航海士兼分隊士
明治廿七八戦役の功に依り勲六等単光旭日章及び200円下賜
明治廿七八戦役従軍記章授与
1896年(明治29年)
- 1月4日
- 本職及び兼職を解き、海軍水雷術練習所学生仰付
- 5月11日
- 海軍水雷術練習所乙種教程卒業
海軍水雷術練習場学生被免、 横須賀水雷団第二水雷艇隊附 - 7月7日
- 本職を解き、「八重山」分隊長心得仰付
- 10月24日
- 海軍大尉、「八重山」分隊長
- 11月17日
- 本職を解き、海軍軍令部諜報課課員、中国東北部にて諜報活動
- 12月21日
- 叙従七位
1897年(明治30年)
- 6月26日
- 本職を解き、米国駐在武官(アメリカ留学)
1898年(明治31年)
- 3月8日
- 叙正七位
- 6月2日
- 米西戦争を観戦武官とともに観戦
- 8月3日
- 退艦
1899年(明治32年)
- 2月8日
- アメリカ北大西洋艦隊旗艦「ニューヨーク」号へ研学の為乗組
- 4月25日
- アメリカ留学を解き、アメリカ駐在仰付
- 9月4日
- 退艦
- 12月27日
- アメリカ駐在を解き、イギリス駐在武官(イギリス留学)
- この年、「天剣漫録」を綴る
1900年(明治33年)
- 4月6日
- イギリス視察の広瀬武夫と合流する
- 5月20日
- 帰朝仰付
- 6月14日
- 広瀬武夫を見送る
- 8月21日
- イギリス駐在を解き、海軍省軍務局課員
- 10月31日
- 本職を解き、常備艦隊参謀
1901年(明治34年)
- 10月1日
- 海軍少佐
- 12月17日
- 叙従六位
- 12月28日
- 明治卅三年清国事変における功に依り金100円下賜
1902年(明治35年)
- 7月17日
- 本職を解き、海軍大学校戦術教官
- 9月19日
- 正岡子規没
1903年(明治36年)
- 4月
- 海軍大学校で講義を行う
- 6月2日
- 稲生真覆の三女・李子(すえこ)と結婚
- 10月27日
- 本職を解き、常備艦隊参謀
第一艦隊参謀(第一艦隊司令長官幕僚)
1904年(明治37年)
- 2月
- 日露戦争勃発、第1回旅順口閉塞作戦開始
- 3月20日
- 第2回旅順口閉塞作戦開始
- 3月25日
- 広瀬武夫を訪ねる(最後の歓談となる)
- 3月27日
- 広瀬武夫戦死
- 8月
- 黄海海戦
- 9月1日
- 海軍中佐
- 10月6日
- 叙正六位
- 10月15日
- バルチック艦隊リバウ軍港を出航
1905年(明治38年)
- 5月27日
- 日本海海戦
- 5月30日
- 叙勲四等授瑞宝章
- 6月14日
- 補連合艦隊参謀
- 6月19日
- 母・貞没
- 9月5日
- 日露講和条約調印
- 11月25日
- 連合艦隊参謀被免、海軍大学校戦術教官に復職
- 12月21日
- 連合艦隊解散
1906年(明治39年)
- 4月1日
- 明治卅七八年戦役の功に依り功三級金鵄勲章並年金700円
及勲三等旭日中綬章を下賜
明治卅七八年戦役従軍記章授与
1907年(明治40年)
- 海軍大演習で中央審判部員
- 11月13日
- 慶應義塾野球部に『褌論』の書簡を送る
1908年(明治41年)
- 2月20日
- 本職を解き、「三笠」副長
- 8月28日
- 本職を解き、「秋津洲」艦長
- 9月25日
- 海軍大佐
- 12月10日
- 本職を解き、「音羽」艦長
- 12月11日
- 叙従五位
1909年(明治42年)
- 11月16日
- 本職を解き、待命仰付
- 12月1日
- 「橋立」艦長
1910年(明治43年)
- 4月9日
- 本職を解き、「出雲」艦長
- 12月1日
- 本職を解き、巡洋戦艦「伊吹」艦長
1911年(明治44年)
- 3月11日
- 本職を解き、第一艦隊参謀長
1912年(大正元年)
- 11月26日
- 小村寿太郎没
- 12月1日
- 本職を解き、海軍軍令部参謀、海軍大学校教官兼任
1913年(大正2年)
- 12月1日
- 海軍少将
1914年(大正3年)
- 1月30日
- 叙正五位
- 4月17日
- 本職並兼職を解き、海軍省軍務局長兼海軍将官会議議員(シーメンス事件の処理にあたる)
- 8月5日
- 松山に帰省
- 8月29日
- 高等捕獲審検所評定官
- 11月1日
- 艦型艤装調査委員
1915年(大正4年)
- 11月7日
- 大正三四年戦役の功に依り勲二等旭日重光章及び金2,500円
大正三四年従軍記章授与 - 11月10日
- 勅令第百五十四号の旨に依り大礼記念章授与
1916年(大正5年)
- 2月21日
- 本職並兼職を解き、海軍軍令部出仕
大戦視察の為、欧米各国へ出張仰付 - 6月20日
- ロシア皇帝陛下贈与神聖スタニスラス第一等勲章受領及び 佩用充許
- 10月31日
- 日本に帰国
- 11月20日
- イギリス国皇帝陛下セント・マイケル・エンド・セント・ジョージ
第二等勲章受領及び 佩用充許
フランス共和国政府贈与コンマンドール・ド・ロルドル・ナショナル・
レジョンドノール勲章受領及び 佩用充許 - 12月1日
- 本職を解き、第二水雷戦隊司令官
- 12月6日
- 高等捕獲審検所評定官を解く
1917年(大正6年)
- 6月
- 盲腸炎が悪化
- 7月16日
- 海上勤務を解き、海軍将官会議議員(病気療養の為)
- 12月1日
- 海軍中将(病気が良くならないため待命仰付)
1918年(大正7年)
- 1月
- 腹膜炎を併発し病気が悪化
- 2月4日
- 没(享年49歳)、 叙従四位、特旨を以て位一級被進
- 2月7日
- 青山斎場にて葬儀が営まれる