秋山真之の妻、秋山季子(稲生季子)

秋山真之は、日頃より「大抵の人は、妻子を持つと共に片足を棺おけに衝込みて半死し、進取の気象衰へ退歩を治む」(天剣漫録)という理由により結婚話を断っていました。
縁談を断ったお話は下記の記事をご参照くださいませ。
その秋山真之が、ついに年貢を納めるときがやってきました。そのお相手とは、
稲生季子

愛知県豊田市出身の宮内省御用掛稲生真履(まふみ)の三女として生まれる。
華族女学校に通う才媛である。
1903年(明治36年)の春、季子(すえこ)は義兄の青山芳得少佐に連れられて、築地の水交社の催しに出席した。
その時、李子を見た八代六郎大佐は、
「清らかですっきりした、気立てのよさそうなお嬢さんだ」
と、とても気に入り、早速に稲生家を訪ねる。
ご令嬢とのご良縁に
と、八代は海軍大学校教官秋山真之との縁談を持ち出した。
しかし、 父・稲生真履は、
軍人に娘はやらない!
と云って断った。
すると、娘婿の青山少佐が、
秋山ですか。私のクラスの首席です。外国にも留学した秀才です。あいつが義弟になるのか、弱ったな。 でも、そうなれば嬉しいですね
と云ったので、安心した稲生氏は、
軍人にやるなら秋山の外にはない
と云って結婚が成立した。 真之36歳、李子21歳の時である。
1903年(明治36年)6月2日、二人は水交社にて結婚式を挙げる。媒酌人は侯爵佐々木高行。
真之はシャイなのか、若い妻に対しては少しぎこちなく、それでいて尊大な態度を見せていたようである。
秋山真之、結婚の感想
日頃より軍神の化身と自身せる小弟が物騒なる昨今の時節に急に思立たる妻定めは別段平和と見せて敵方に油断させる大計略にも無御座。 唯この一生の大道楽の中途における、ほんのウサ晴らしにて候。
しかしこの入道が偶然にも女房持つ気になった事はこの頃北天の一隅に現れたる彗星と共に少しは異変の沙汰とも申し、天下太平の吉兆か将また大乱の徴候か時に取っての判じ物に候。
「山屋他人中佐に宛てた書簡」より