日本海軍の父・山本権兵衛の人物評5選|人材登用と決断で海軍を築いた男

明治日本の海軍を「組織」として完成させた人物――それが山本権兵衛です。
薩摩藩出身の一軍人にすぎなかった彼は、人材を見抜く力と公平な人事、そして揺るがぬ信念によって、日本海軍の基盤を築き上げました。
とりわけ、東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢した決断は、日露戦争の勝敗を左右したといわれています。
本記事では、「日本海軍の父」と呼ばれる山本権兵衛の人物像を、当時の証言をもとに5つの視点からわかりやすく解説します。
山本権兵衛とは

山本権兵衛(ごんのひょうえ)は、1852年(嘉永5年)10月15日、薩摩藩・鹿児島城下の加治屋町に生まれました。
この加治屋町は、西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平八郎らを輩出した、いわば明治維新の人材の宝庫ともいえる地です。
父・五百助盛珉は薩摩藩の右筆であり、山本は幼少より実務感覚と武士としての気風を兼ね備えた環境で育ちました。
少年期と維新動乱
1863年、薩英戦争では、まだ12歳ながら砲弾運搬などに従事し、戦場を体験します。
その後、16歳で年齢を偽って藩兵に志願し、鳥羽・伏見の戦い、そして戊辰戦争に参加。ここで軍人としての基礎を築きました。
海軍への道
1869年、上京した山本は、勝海舟のもとで学び、海軍の道を志します。
さらに1873年、征韓論による政変を受けて一時帰郷し、西郷隆盛と直接会見。
その際、西郷から「日本の将来には海軍が不可欠である」と説かれ、強い使命感を持って復学しました。
海軍官僚としての頭角
海軍兵学寮を卒業後、ドイツ軍艦への乗艦経験などを経て、山本は実務官僚として頭角を現します。
特に1892年の議会で軍艦予算が削減された際、山本は単なる防衛ではなく、海軍制度そのものの改革に着手しました。
このとき彼が行ったのは、単なる整理ではなく――
「能力本位の人材登用」でした。
斎藤実、岡田啓介ら、藩閥を超えた人材を積極的に登用し、日本海軍の近代化の礎を築きます。
戦争と国家運営
日清戦争では大本営で活躍し、特に「高陞号事件」では冷静な外交判断により日英関係の悪化を防ぎました。
また、日露戦争では、東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢。
この決断が日本海海戦の勝利へとつながります。
その後は首相としても2度政権を担い、軍部と政治のバランスを取ろうとした数少ない人物でもありました。
山本権兵衛の人物評5選
①「人を見るの明」(伊藤博文)
予は個人として君(伯)に敬服すること三点あり。この三点は余の先輩木戸、大久保も三舎を避けんか。第一、人を見るの明、即ち今次東郷中将を司令長官に推せるが如き事、第二、海軍の教育訓練を初とし諸般の施設準備に到る迄、真に慎密周到にして至れり尽せりなる事。第三は未だ口外するの時機に非ず云々。
(明治37年4月23日の晩伊藤侯官邸にての談)
山本の最大の強みは人を見る力でした。
東郷平八郎を司令長官に推した判断は、その象徴的な例です。
さらに海軍教育・制度整備においても、細部に至るまで抜かりなく準備を行い、組織を強固なものにしました。
②「西郷と大久保を併せ持つ男」(上村彦之丞)
山本の人物の大きいところは、世に偉人傑士と言われる者よりも一段勝れた様に見える。先づ近来の偉傑に比べて考えれば、西郷隆盛の人物の偉きところへ、大久保利通の器量の勝れたところをこね混ぜた様な者である。実に偉い人物が出来たものと思う。これは独り彦之丞の意見ではない。誰でも権兵衛に接触、親灸した者は皆等しく感ずるところだ。
情の西郷、理の大久保――
その両方を併せ持つ稀有な存在として評価されています。
これは単なる人物評ではなく、統率力と実務能力の両立を意味しています。
③「人事に命をかけた男」(岡田啓介)
海軍の進級会議が初まる前にはその進級する停年に達した人、即ち資格を具て居る人の考課表をスッカリ整理するのであるが、伯はその整理を待って、少なくとも三日間位は之に目を通しチャンと一人一人に就いて知って居られた。そして議論が紛糾すると伯は自分では彼是言わず「本人の考課表を読んで見よ」と言われ万事は定まった。伯が如何に人事に注意を払われたかが肯かれる。
山本は昇進人事において、すべての候補者の考課表に目を通し、人物を把握していました。
議論が紛糾した際には、「本人の考課表を読んでみよ」と一言だけで結論を導いたといいます。
これは、感情ではなく事実で判断する姿勢の現れでした。
④「右顧左眄す可からず」(黒井悌次郎)
伯は道を歩くのに常に真正面のみを直視して、決して脇見や振り返って見る事をされなかった。海軍省の廊下を歩くのにも同じで、恐らく伯一生の常習であったろう。市内散歩の時でも例外はなかった。是は伯の信念であり、モットーでありました。「人間は其正しと信ずる所に向て須らく直進す可く右顧左眄す可からず」を処世の上にも一貫して居られたのである。
山本は常に前だけを見て歩き、脇目も振らなかったといわれます。
この姿勢はそのまま彼の人生そのものでした。
信念を持ったら迷わない――それが山本の行動原理でした。
⑤「是を是とし、悪を悪とす」(徳富蘇峰)
伯は薩人以外には尤も伊藤公に知られた。後進でありつつ山県公に取っては自ら隠然一敵国を做さしめた。伯は是を是とし、好を好とし、悪を悪とした。故にその味方と同時に、敵も少くなかった。しかもその君国に酬いる志にいたりては、何人も之を疑う者はなかった。公人としての伯は実に重くしてかつ威ある人物であった。
山本は妥協を好まず、常に明確な判断を下しました。
そのため敵も多かったものの、「国家に尽くす意思」に疑いを持つ者はいなかったといいます。
まとめ
山本権兵衛は、単なる軍人ではなく――
組織を作り、人を育て、国家を動かした人物でした。
- 人材を見抜く力
- 公平な人事
- 信念に基づく決断
これらが結びついたとき、日本海軍は初めて近代的な組織として完成します。
だからこそ彼は、「日本海軍の父」と呼ばれるのです。


