秋山真之と広瀬武夫:天の道、剣の道

日露戦争という歴史的転換点において、日本海軍を支えた二人の男――
秋山真之と広瀬武夫。
一人は戦略を構想する頭脳であり、一人は現場でそれを体現する武人でした。
この二人は、単なる同僚ではなく、互いを深く理解し合う「精神的な同志」でもありました。
その関係を象徴する言葉が、「天の道、剣の道」です。
本記事では、二人の出会いから思想、そして運命的な結末までをたどります。
秋山真之と広瀬武夫
広瀬武夫は海軍兵学校15期、秋山真之は17期で、広瀬が先輩にあたります。
しかし興味深いことに、秋山真之は1868年3月20日生まれ、広瀬武夫は同年5月27日生まれで、実年齢は秋山の方が上でした。
そのため広瀬は、秋山をどこか年長の兄のように慕っていたといわれています。

誕生:1868年(慶應4年)4月20日
出身:愛媛県松山市
軍歴:海軍兵学校(17期生)
兄:秋山好古(陸軍)

誕生:1868年(慶應4年)5月27日
出身:大分県竹田市
軍歴: 海軍兵学校(15期生)
兄:広瀬勝比古(海軍)
二人の出会い

二人が深く結びつくきっかけとなったのは、教官であった八代六郎の存在でした。
八代大将と広瀬とは共に柔道好きであったので、八代大将の独身時代はその家を道場のようにしてドッタン、バッタンやっていました。そんな関係で八代大将は広瀬をこの上なく可愛がっており、その縁で二人は親交を深めていきます。
秋山真之は、同輩には常に優越を感じていたので、対等の気持ちで交際することが少なかったが、上級の広瀬武夫とは全く相信頼し相尊敬しあうのです。
やがて二人は四谷で同居するほどの仲となりますが、その生活は豪快そのもの。
食事もろくに用意せず、パンと水だけで過ごすような荒々しい日々でした。
二人の住居の真向かいの屋敷の女中は、こう語っています。
「広瀬さんはという方は顔が恐ろしくて武張った人であるけれども、つきあって見ると案外優しい人で近づきやすいが、秋山さんという方は、顔はそれほどでもなく、背も低いが、何となく恐ろしくて近づきにくい人でした。」
また、秋山が郷里伊予から母をよんで、芝の高輪車町に家を構えた時は、広瀬もときどき遊びに行き、ある時二人で雑煮の大食い競争をしたが、広瀬が21杯を平らげ勝利するなど、人間味あふれる逸話も残されています。
2. 海外派遣留学
1897年(明治30年)、海軍は精鋭士官を海外へ派遣します。
秋山真之は首席卒業というエリートであり、当然の人選でした。
一方、広瀬武夫は卒業順位64位と決して優秀とはいえない成績でした。
ところが、最後のロシア留学内定者として出てきた名前をみると、海軍大尉広瀬武夫としてある。
あの広瀬か、よかろう!
と、山本権兵衛少将は思わずにやりとしたが、卒業席次80人中64位とあるのに驚いた。
64はまちがいだろう。6と4の誤記でなかろうか。なんぼなんでも64番のはずがない
副官に調べさせると、
まちがいありません、64番であります。
と断言した。これには山本も躊躇した。
しかし、山本権兵衛は最終的に広瀬をロシアへ派遣します。
その理由は明確でした。
- 実務能力の高さ
- 人望と統率力
- ロシア語への強い関心
特にロシア研究への志は、大津事件を契機に芽生えたものであり、
彼の将来を決定づける重要な要素となりました。
3. 天の道、剣の道(天剣漫録)
秋山真之のアメリカ留学中の作業はめざましく、ことに米西戦争のとき、アメリカ艦隊の運送船「セグランサ」で従軍した戦闘報告は、視察のするどいこと、見識の高いこと、文章のみごとなことで、驚嘆している上級者が多いことを広瀬もかねて伝え聞いていた。
広瀬が秋山にアメリカ海軍の気風をたずねると、
なにしろ社会の格式も威厳もうるさくないから、外国人だってひどく差別はしないし、わしのつき合ったのはみんな淡白で親切な人ばかりだ。わしの研究をよく助けてくれたよ。はじめは海軍大学校に入ろうと思ったが、規定上外国将校は無理だというし、マハン大佐の意見では、むしろ戦史をよく研究して独特の見方をやしなう方法が得策だというし、その方がいいとわしも思って、もっぱら戦史をおさめた
ということだった。

マハン大佐といえば、そのころ世界的な名声をはせていた兵学者である。
広瀬は思わず聞き耳をたてた。秋山の言葉から総合すると、マハンは哲学的な頭脳に、論理思想を加味した神経質な兵学者で、アメリカ人にはめずらしい精神家らしい。
なかなかゆだんのならぬおやじだよ。もっとも議論はこまかすぎて、わしは一から十まで敬服しているわけじゃない。いったい国防問題は、ほかの学問とちがって、国土の状況で左右されるべきものだ。どこまでも独自なものだ。一にも西洋、二にも西洋じゃ話にならんと、この小柄で精悍な士官は気焔万丈だった。たとえば西洋の戦略は、どの兵学書をよんでも、勝つとは敵をあますことなく全滅させることだと説いていえるね。ところが東洋では戦わずして敵を屈するというのが兵学の大目的になっているんだ。これは「屈敵主義」とでも名づけるか。理論としては東洋の方が高い立場に立っていることはあきらかなんだ。どうだ。
なかなか面白い議論だね。
ところで「正攻」とか「奇襲」とかいうが、あの差別はどうかね。
もともと兵法というものは、詭道だから、奇襲以外にはありえないというものだ。どんなものもみんな奇襲だ。ところで敵が正攻でくる場合には、こちらから奇襲したくとも「凡戦者以正合奇勝」と昔からいっているだろう。「正ヲ以テ合セ」とは、敵が正奇の両方をとって攻撃してきても、こちらはつねに正々の実力をもって対抗し、敵に虚をしめしてはならぬということなんだね。「奇ヲ以テ勝ツ」とは、戦機を見て、敵の虚に乗じて弱点をつき、勝てという意味なんだよ。正法は人間万事の源だから、こちらはまず正位に我を置くという意味も入っているんだな。要するに兵法というのは、「おのれの欲せざるところを人にほどこせ」というのに尽きる。『論語』の正反対で、まあせんじつめれば智能の戦いだね。
そいつを人事に応用すると、たいへんなことになるな。
そうだとも。そうだとも。もともと兵術は詭道だから、決して平和の人事に応用してはいかんのだ。乱世のとき悪をこらすためにだけ用いるべきものだよ。人間はふだんは公明正大にふるまうのが根本の道だ。策士なんぞというものは、いつでも成功するとはかぎらんな。
と一気にかたむけた盃をおいて、秋山は憮然とした。
そして、自らの思想を五箇条にまとめました。
ときに広瀬、わしは自分の信念をこんなふうに作ってみたが、貴様はどう思う。いわばわしの軍人哲学だ。
一つ、一身一家一郷を愛するものは悟道足らず。 世界宇宙等を愛するものは悟道過ぎたり。軍人は満腔の愛情を君国に捧げ、上下過不及なきを要す。
一つ、吾人の一生は帝国の一生に比すれば、万分の一にも足らずと雖も、吾人一生の安を偸めば、帝国の一生危し。
一つ、敗くるも目的を達することあり。 勝つも目的を達せざることあり。 真正の勝利は目的の達不達に存す。
一つ、人生の万事、虚々実々、臨機応変たるを要す。 虚実機変に適当して、始めてその事成る。
一つ、虚心平気ならんと欲せば、静界動界に修練工夫して、人欲の心雲を払い、無我の妙域に達せざるべからず。 兵術の研究は心気鍛錬に伴ふを要す。
えらい哲学をまとめたな。おれが題をつけてやろう。
そうだな・・・・・・「天の道、剣の道」はどうだ?
わしの考えと暗合したね。わしも「天剣漫録」とつけたいと思っていたところだ。
そういって会心の笑みをもらした秋山は、急に真顔になって広瀬の眼を見入りながら、
治に居て乱を忘るべからず。 天下将に乱れんとすと覚悟せよ。
と一息に言ってのけた。
その鋭い眼光、その凛然とした気魄にうたれて、広瀬も身のひきしまるような感動を覚えた。
ときにこんど見学した「朝日」から考えても、日本海軍はずいぶんえらくなったものだ。とにかく軍艦は大きいのが出来た。あれらを自在に駆使して戦える日本独自の「戦術家」というのはいるのかな。
広瀬はふと不安げなひとりごとを、つぶやいた。
おい、おい、失礼なことを言うな。貴様の前にいるお方の前でよ
これは失礼しました。そうだったな(笑)
いよいよロシアと戦うときには、その大戦術家は、どうなさる?
拝聴したものですな
どうせロシアは東洋に全力を集められんよ。バルチック海があるから、いつでも勢力は二分せざるを得ぬ。そこがつけねらいどころだ。東洋にあつめたやつが、こっちよりつよくならぬうちに、こちらからしゃにむに仕かけて、そいつをみんなたたいてしまう。おおきな声でいえないが、こんどエスパニアとの戦争で、アメリカがつかった手を大規模にやれば、まあ袋のネズミだろう。こっちは無傷で、相手をすっかり押えてしまう。
もしバルチックから後詰がきた場合にはどうする?
後詰はそんなにこわくはないよ。一挙に全滅させるというわけにはいかんだろうが、二、三回にわけて、手を切り、足を殺ぎ、首をとる。――そういう戦策をたてれば、なんでもないさ。どっちにしても日本は負けぬ。こまかい案はわしの腹にあるから、わしにまかせとけ
この瞬間、日本海軍に新しい“思考の軸”が生まれたといっても過言ではありません。
5月27日 ― 運命の日
それから5年後の1905年5月27日。
この日、日本海海戦が行われ、秋山真之の戦略は現実となります。
しかしそのとき、広瀬武夫はすでにこの世にいませんでした。
彼は旅順港閉塞作戦で戦死していたのです。
そして不思議なことに、5月27日は広瀬武夫の誕生日でもありました。
思想を共にした男の誕生日に、もう一人の男がその思想を戦場で完成させた――
そこには、単なる偶然では片付けられない深い因縁を感じずにはいられません。
まとめ
秋山真之と広瀬武夫は、役割こそ異なりますが、
同じ志を持った「精神の同志」でした。
- 秋山は思想を築き
- 広瀬はそれを理解し支えた
そして広瀬亡き後、秋山はその思想を現実の戦場で証明します。
この関係こそが、「天の道、剣の道」の本質なのかもしれません。


