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秋山真之と広瀬武夫 ~天の道、剣の道~

  • 公開日:2022/09/11
秋山真之と広瀬武夫

広瀬武夫は海軍兵学校の15期生、秋山真之は17期生になり、広瀬は秋山の先輩となります。

一方、この二人の誕生日はというと、秋山真之は1868年(慶應4年)の3月20日生まれで、広瀬武夫は同年の5月27日生まれとなるため、秋山真之の方が2ヶ月上であり、実のところ気持ちの上で広瀬は、秋山を年長の兄のように慕っていたのでした。

秋山真之
秋山真之

誕生:1868年(慶應4年)4月20日

出身:愛媛県松山市

軍歴:海軍兵学校(17期生)

兄:秋山好古(陸軍)

広瀬武夫
広瀬武夫

誕生:1868年(慶應4年)5月27日

出身:大分県竹田市

軍歴: 海軍兵学校(15期生)

兄:広瀬勝比古(海軍)

1. 二人の出会い

八代六郎
八代六郎

この二人が、互いに心の底まで打ち明けて親しくつきあう仲になったきっかけは、八代六郎大将の仲介によるものでした。八代大将は二人の兵学校時代の教官でした。

八代大将と広瀬とは共に柔道好きであったので、八代大将の独身時代はその家を道場のようにしてドッタン、バッタンやっていました。そんな関係で八代大将は広瀬をこの上なく愛していたし、勢い、八代大将を介し、八代大将を中心として両雄相結ぶようになったのでした。

秋山真之は、同輩には常に優越を感じていたので、対等の気持ちで交際することが少なかったが、上級の広瀬武夫とは全く相信頼し相尊敬しあうのです。

二人は四谷で一戸を借りて同棲していた事もあり、何しろ豪快そのもののような二人の合宿であったから、その生活は乱暴極まるもので、カゴの中に幾日分ものパンを入れて置いて、それでご飯も炊かねばお茶も沸かさず、パンと水ばかりで生活するというような有様でした。

二人の住居の真向かいの屋敷の女中は、

「広瀬さんはという方は顔が恐ろしくて武張った人であるけれども、つきあって見ると案外優しい人で近づきやすいが、秋山さんという方は、顔はそれほどでもなく、背も低いが、何となく恐ろしくて近づきにくい人でした。」

と云っていたそうです。

また、秋山が郷里伊予から母をよんで、芝の高輪車町に家を構えた時は、広瀬もときどき遊びに行き、ある時二人で雑煮の食べ比べ競争をしたことがあります。この時は、21杯たいらげた広瀬に軍配が上がっています。

2. 海外派遣留学

1897年(明治30年)6月26日、5人の海軍大尉の外国留学が決定されました。

イギリスに財部彪大尉、フランスに村上格一大尉、ドイツに林三子雄大尉、アメリカには秋山真之大尉――。どれもこれも選り抜きの俊秀ばかりです。

財部は1889年首席で卒業、村上は1884年第二位の成績、林は1885年の第三位で卒業、そして、秋山真之は1890年の首席卒業になります。

ところが、最後のロシア留学内定者として出てきた名前をみると、海軍大尉広瀬武夫としてある。

あの広瀬か、よかろう!

と、山本権兵衛少将は思わずにやりとしたが、卒業席次80人中64位とあるのに驚いた。

64はまちがいだろう。6と4の誤記でなかろうか。なんぼなんでも64番のはずがない

副官に調べさせると、

まちがいありません、64番であります。

と断言した。これには山本も躊躇した。

広瀬はずばぬけた秀才ではないが、よくよく効果表をみると、軍人の本命たる実地勤務は申し分ない。

  • 練習艦「比叡」の乗組としては、抜群の働きをした。
  • 水雷術を練習させると、同期の尉官10数名のうち、首席で卒業した。
  • さっぱりとした性格で勤務にはげむ。心があかるく、快活である。いつもたのしそうである。

艦上でも、陸上でも、勤務をとるのが、義務を果たすというより、愉快でしかたがないらしい。その明るい楽しい気持ちは、おのずと周囲にも伝わった。相手も明るく、楽しくなる。 広瀬のいるところには、いつも春風の吹くかのような趣きがあった。いかにもりっぱな人物であると、上官は極力推薦していたのでした。

また、この当時留学生の候補の中にロシア語を学んでいる者が少なかった。その中で広瀬は、とにかくその言語を修めていた。彼がロシア語を研究するようになったのは、1891年(明治24年)5月に起きた大津事件による。一時は国際問題にまで発展しそうになったこの事件をきっかけとして、広瀬はロシア関係に深く注意をはらい、研究に志していたのでした。

広瀬大尉が熱心にロシア研究を志しているという評判が関係者の間に知れ渡っており、山本は思い切って決済の印を押します。

3. 天の道、剣の道(天剣漫録)

秋山真之のアメリカ留学中の作業はめざましく、ことに米西戦争のとき、アメリカ艦隊の運送船「セグランサ」で従軍した戦闘報告は、視察のするどいこと、見識の高いこと、文章のみごとなことで、驚嘆している上級者が多いことを広瀬もかねて伝え聞いていた。

広瀬が秋山にアメリカ海軍の気風をたずねると、

なにしろ社会の格式も威厳もうるさくないから、外国人だってひどく差別はしないし、わしのつき合ったのはみんな淡白で親切な人ばかりだ。わしの研究をよく助けてくれたよ。はじめは海軍大学校に入ろうと思ったが、規定上外国将校は無理だというし、マハン大佐の意見では、むしろ戦史をよく研究して独特の見方をやしなう方法が得策だというし、その方がいいとわしも思って、もっぱら戦史をおさめた

ということだった。

マハン

マハン大佐といえば、そのころ世界的な名声をはせていた兵学者である。

広瀬は思わず聞き耳をたてた。秋山の言葉から総合すると、マハンは哲学的な頭脳に、論理思想を加味した神経質な兵学者で、アメリカ人にはめずらしい精神家らしい。

なかなかゆだんのならぬおやじだよ。もっとも議論はこまかすぎて、わしは一から十まで敬服しているわけじゃない。いったい国防問題は、ほかの学問とちがって、国土の状況で左右されるべきものだ。どこまでも独自なものだ。一にも西洋、二にも西洋じゃ話にならんと、この小柄で精悍な士官は気焔万丈だった。たとえば西洋の戦略は、どの兵学書をよんでも、勝つとは敵をあますことなく全滅させることだと説いていえるね。ところが東洋では戦わずして敵を屈するというのが兵学の大目的になっているんだ。これは「屈敵主義」とでも名づけるか。理論としては東洋の方が高い立場に立っていることはあきらかなんだ。どうだ。

なかなか面白い議論だね。
ところで「正攻」とか「奇襲」とかいうが、あの差別はどうかね。

もともと兵法というものは、詭道だから、奇襲以外にはありえないというものだ。どんなものもみんな奇襲だ。ところで敵が正攻でくる場合には、こちらから奇襲したくとも「凡戦者以正合奇勝」と昔からいっているだろう。「正ヲ以テ合セ」とは、敵が正奇の両方をとって攻撃してきても、こちらはつねに正々の実力をもって対抗し、敵に虚をしめしてはならぬということなんだね。「奇ヲ以テ勝ツ」とは、戦機を見て、敵の虚に乗じて弱点をつき、勝てという意味なんだよ。正法は人間万事の源だから、こちらはまず正位に我を置くという意味も入っているんだな。要するに兵法というのは、「おのれの欲せざるところを人にほどこせ」というのに尽きる。『論語』の正反対で、まあせんじつめれば智能の戦いだね。

そいつを人事に応用すると、たいへんなことになるな。

そうだとも。そうだとも。もともと兵術は詭道だから、決して平和の人事に応用してはいかんのだ。乱世のとき悪をこらすためにだけ用いるべきものだよ。人間はふだんは公明正大にふるまうのが根本の道だ。策士なんぞというものは、いつでも成功するとはかぎらんな。

と一気にかたむけた盃をおいて、秋山は憮然とした。

ときに広瀬、わしは自分の信念をこんなふうに作ってみたが、貴様はどう思う。いわばわしの軍人哲学だ。
一つ、一身一家一郷を愛するものは悟道足らず。 世界宇宙等を愛するものは悟道過ぎたり。軍人は満腔の愛情を君国に捧げ、上下過不及なきを要す。
一つ、吾人の一生は帝国の一生に比すれば、万分の一にも足らずと雖も、吾人一生の安を偸めば、帝国の一生危し。
一つ、敗くるも目的を達することあり。 勝つも目的を達せざることあり。 真正の勝利は目的の達不達に存す。
一つ、人生の万事、虚々実々、臨機応変たるを要す。 虚実機変に適当して、始めてその事成る。
一つ、虚心平気ならんと欲せば、静界動界に修練工夫して、人欲の心雲を払い、無我の妙域に達せざるべからず。 兵術の研究は心気鍛錬に伴ふを要す。

えらい哲学をまとめたな。おれが題をつけてやろう。
そうだな・・・・・・「天の道、剣の道」はどうだ?

わしの考えと暗合したね。わしも「天剣漫録」とつけたいと思っていたところだ。

そういって会心の笑みをもらした秋山は、急に真顔になって広瀬の眼を見入りながら、

治に居て乱を忘るべからず。 天下将に乱れんとすと覚悟せよ。

と一息に言ってのけた。

その鋭い眼光、その凛然とした気魄にうたれて、広瀬も身のひきしまるような感動を覚えた。

ときにこんど見学した「朝日」から考えても、日本海軍はずいぶんえらくなったものだ。とにかく軍艦は大きいのが出来た。あれらを自在に駆使して戦える日本独自の「戦術家」というのはいるのかな。

広瀬はふと不安げなひとりごとを、つぶやいた。

おい、おい、失礼なことを言うな。貴様の前にいるお方の前でよ

これは失礼しました。そうだったな(笑)
いよいよロシアと戦うときには、その大戦術家は、どうなさる?
拝聴したものですな

どうせロシアは東洋に全力を集められんよ。バルチック海があるから、いつでも勢力は二分せざるを得ぬ。そこがつけねらいどころだ。東洋にあつめたやつが、こっちよりつよくならぬうちに、こちらからしゃにむに仕かけて、そいつをみんなたたいてしまう。おおきな声でいえないが、こんどエスパニアとの戦争で、アメリカがつかった手を大規模にやれば、まあ袋のネズミだろう。こっちは無傷で、相手をすっかり押えてしまう。

もしバルチックから後詰がきた場合にはどうする?

後詰はそんなにこわくはないよ。一挙に全滅させるというわけにはいかんだろうが、二、三回にわけて、手を切り、足を殺ぎ、首をとる。――そういう戦策をたてれば、なんでもないさ。どっちにしても日本は負けぬ。こまかい案はわしの腹にあるから、わしにまかせとけ

それにしても秋山の兵法や戦術談を聞いていると、広瀬は、いままで存在しなかった自主的な日本海軍のあたらしい頭脳が生まれて、じっさいいま目の前に厳存していることを直感した。こんな感動は、これまでだれに会っても覚えなかったものである。

4. 5月27日

それから5年後の5月27日、広瀬武雄はもうこの世にはいませんでしたが、この日、ここで語られた秋山の言葉通りの戦策で、秋山に指導された日本艦隊は、遠来のロシア艦隊を沖ノ島附近に迎え撃って、海戦史上かってみない完全な勝利をおさめます。

この5月27日こそ、広瀬武夫の誕生日でもあり、不思議な因縁を感じえます。

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