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秋山真之と正岡子規の友情(前編)

  • 公開日:2022/09/06
  • 最終更新日:2022/09/08
秋山真之と正岡子規

志半ばにして亡くなった友の死に、秋山真之と正岡子規は、友の為に必ず立身出世し、功を成し遂げようと誓います。様々な困難を励ましあい支えあい克服していった、二人の熱き友情の物語をご紹介いたします。

本文の構成は、2008年(平成20年)4月4日(金)に四国地区で放送されました、NHK四国スペシャル「贈られた言葉」 - 正岡子規と秋山真之 交流の記録 - を参照しています。なお、画像等につきましては番組とは一切異なります。

1. 春や昔 十五万石の 城下かな

松山城
松山城

戦国時代の気風を今に伝える松山城。
山を取囲んで広がる城下町の一角で、正岡子規と秋山真之は誕生しました。

正岡子規
正岡子規

正岡子規は、明治改元一年前の1867年(慶應3年)9月17日、 伊予松山藩士正岡隼太の長男として生まれました。 幼名のぼる。 六歳の時に父親が亡くなり、 苦しい家計のなか母親の女手一つで育てられました。

秋山真之
秋山真之

秋山真之は、 1868年(明治元年)3月20日生まれ。下級武士の五男として、子規と同じく貧しい家庭に育ちました。幼名は淳五郎。

2. 二人の出会い

明教館
子規と真之が学んだ明教館

二人の生まれた頃は、松山藩が明治維新で徳川方について破れ、賊軍の汚名をきせられて没落した厳しい時代でした。そこで、松山の人々は、子供たちの教育に未来を託します。

二人は同じ小学校・中学校に通う内に、親友になったと伝えられています。しかし、どのように交流していたのか、詳しい資料は残っていません。

二人の交流を探る手がかりが愛媛県立図書館に残されていました。
明治15年に松山市内で発行されていた文芸雑誌「風詠新誌」です。
この雑誌の投稿欄に中学生だった子規と真之の歌が掲載されていました。
「藤原藤房」と題した漢詩を投稿しているのが、当時16歳の正岡子規。
そして、「夏草」という和歌を投稿していた秋山真之は15歳でした。

NHK番組より

『正岡子規入門』の著者で、子規研究の第一人者として知られる和田克司さんに依りますと、当時最新のメディアだった雑誌が、子規と真之を結びつける重要な役割を果したと考えます。

二人の歌の師匠は同じ人物でした。当時松山きっての歌人であった井出真棹(まさお)です。井出真棹に入門したのは真之の方が先でした。秋山家と井出家とは古くから親交があり家族ぐるみの付き合いをしていたのです。幼い頃から井出家に出入りし、歌を習っていた真之が、子規を和歌の道に誘ったと云います。

後の人生に重要となる影響を与え合っていた若き日の真之と子規。やがて青年となった二人は、外の世界への憧れを強めるようになり、上京を決意します。

3. 憧れの東京

東京大学予備門
東京大学予備門

1883年(明治16年)、子規と真之は東京に到着。当時、東京は地方から成功を夢見て上京する人々で溢れていました。二人は最高学府の東京大学予備門へと入学。維新で負けた藩の子弟にとって、学門こそ、立身出世の道なのでした。

常磐会寄宿舎
常磐会寄宿舎

この時代、子規たち松山の学生の多くは、本郷にあった常盤会という寄宿舎に入りました。貧しい子弟の負担を軽くするため、旧松山藩士が創設した寮になります。

常盤会寄宿舎は東京都東久留米市に移転し、現在も存続しています。現在は松山の有志により運営されていて、松山から東京を目指す若者たちの受け皿になっています。廊下には子規が暮らしていた当時の寮の規則の写しが、今も張り出されているそうです。

4. 七変人遊戯競

子規が学生生活を記録した文章が、後に雑誌『ホトトギス』に発表されています。当時子規たちが熱中したのが「七変人遊戯競」というもの。スポーツや遊戯の腕くらべです。

骨牌(カルタ)

骨牌(カルタ)

その一つが、「骨牌」(カルタ)。
子規と真之は共に大関に番付され、互角の強さでした。

坐相撲(すわりずもう)

坐相撲(すわりずもう)

さらに部屋で行う、「坐相撲」(すわりずもう)。
信じられないことに子規が真之を負かして大関です。

弄球(野球)

弄球(野球)

そして最新の遊戯だった「弄球」(野球)。
野球好きで、野球殿堂入りまで果した子規ですが、当時においては真之の方が上手だったようです。

郷党人物月旦評論

当時子規がまとめた手作りの人物録も残っています。「郷党人物月旦評論」は、互いの性格を分析しあったもので、秋山真之は才智の多い人物と仲間から評価されています。正岡子規の評は将来大きな名声を得る人物。後に軍事参謀と文学者になる二人の将来を、的確に予言するものとなっています。

一見他愛ない競い合いの中で、子規たちは自分たちが何に向いているか、どんな職に就くべきかを必死に探ろうとしていたのです。

5. 友の死に誓う

青春を謳歌していた二人。しかし東京の学生生活は楽しいばかりではありませんでした。

当時の仲間に正岡子規の幼なじみで松山出身の清水則遠(のりとお)という青年がいました。子規と真之と清水の三人は馬が合い、どこに行くにも一緒でした。

正岡子規と清水則遠
子規と清水則遠
(写真:前列左より清水則遠、正岡子規、
後列左より柳原極堂、吉川祐輝)

(秋山真之の)留学中に子規君の病気はだんだん進んで来て、枕許で談柄に窮した時などにはよく同郷人の人物評をやった。子規君の口にかかると大概のものは子供のようになってしまうが、其の中で軽重されたものは真之君と、も一人清水則遠という人であった。 此の人は、ぼうッとした牛のような人であったらしい。一体がちょこちょこした重みのない松山人のうちで、此清水という人などはたしかに異彩であったに違い無い。惜しい事に脚気衝心で早く亡くなられたという事じゃ。余は古く子規君と一緒に谷中に在る其の墓に詣った事を記憶している。

高浜虚子『ホトトギス』(明治38年7月1日発行)より

清水則遠の死

1886年(明治19年)4月14日、この清水が病にかかり命を落とします。栄養不足からくる脚気が悪化して起きた心臓麻痺でした。親元から届くはずの仕送りが届かず、薬が買えなかったのでした。子規は幼なじみの死に激しいショックを受け、一時錯乱状態に陥ったと云います。

この時、子規をしっかりと支えたのが秋山真之です。「のぼさん、しっかりおしや」と、落ち着かせ、励ましあい、清水の葬儀を執り行いました。

亡くなった清水の実家宛てに、子規が出した手紙が残されています。

清水家に宛てた手紙
清水家に宛てた手紙

長さは7メートルを超え、現存する子規の手紙の中で、最も長いものです。葬儀に出られない松山の遺族の為に、友を送った日の様子を絵を交えて、面々と記す子規。傍に居ながら救えなかった無念さと、詫びる気持ちを繰り返し綴っています。

子規はこの手紙のなかで、次のような誓いを立てています。

ご令弟の名をあげることを今後の自分の一生の目的にするつもりです。

そのためにはまず第一に僕の名をあげることにつとめ命をかけようと思います

志半ばにして亡くなった友人の死は、子規と真之に必ず立身出世し、功を成し遂げようと決意させる大きな転機となりました。

6. 秋山真之の決意

松山の子規記念博物館には真之から子規に宛てた七通の手紙が秘蔵されています。その最初の手紙は、二人が衝撃を受けた清水則遠の死後、二ヵ月後に書かれたものです。

そこには19歳であった真之の重大な決意を込めた和歌が書かれていました。

送りにし 君がこころを 身につけて 波しずかなる 守りとやせん
(見送ってくれる君の心を身につけて旅路の守りにしたい)

NHK番組より

この時、真之は東京大学予備門を退学することを決断、子規に別れを告げた手紙でした。

真之は亡くなった清水と同じく経済問題に悩んでいました。

秋山好古
秋山好古

当時の真之が学費を頼っていたのは、陸軍大尉だった兄の秋山好古です。兄に迷惑をかけたくないという思いから、真之は学費が要らない海軍兵学校に入ることを決意します。

真之の手紙に答えた子規の返信は、 現在見つかっていないそうです。しかし、子規記念博物館には、 この時真之に送られた子規の返歌が残っていました。

<秋山大人の国に帰るを送る>

海神も 恐るる君が 船路には 灘の波風 しづかなるらん
(海の神も恐れるような君なのだから、これからの君の旅路もきっと波穏やかであろう)

NHK番組より

経済的問題から軍人への道を選択した友を励ます子規。これ以降、小学校から同じ道を歩んできた二人は、別々の運命を辿ることになります。

後編につづく ↓

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