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秋山好古と秋山真之―この兄、この弟

  • 公開日:2023/12/17
  • 最終更新日:2026/04/21

「同胞(はらから)」という言葉、また「連枝」という表現には、兄弟の年長者と年少者の秩序が含まれており、古来これを君臣の義、父子の親、夫婦の別、朋友の信と並ぶ人間関係の基本として尊んできました。

兄弟という語には、広く「四海皆兄弟」という意味もありますが、ここではより狭い意味、すなわち血を分け、家名を高め、共通の目的のために助け合う存在としての兄弟を指しています。古来、そうした兄弟の佳話は少なくありません。

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その中でも近代日本において特に名高い兄弟の一組として、秋山好古・真之の兄弟を取り上げます。

本記事は、沢本孟虎著『あの人この人』に収録された内容をもとに構成しています。

同胞(はらから)の交わり

兄弟の美談として名高いものは、昔から数多く語られてきました。
たとえば、十郎・五郎の曽我兄弟が父の仇を討った話は広く知られています。また、松王・梅王・桜丸の三兄弟の物語も、演劇の世界で長く親しまれてきました。

さらに、新羅三郎義光が足柄山で秘術を授かり、兄義家を助けるために陸奥へ赴いた話、あるいは安倍貞任・宗任兄弟が義家の軍を苦しめた話なども、兄弟の結びつきの深さを示すものとして知られています。これらは、文武に秀で、情にも厚い人物像として人々に記憶されてきました。

もっとも、世の中には兄弟の争いによる悲劇もあります。源氏の内紛に見るように、兄弟の不和が家を弱らせ、ひいては大きな衰退を招くこともありました。これは「六国を滅ぼしたのは秦ではなく六国自身である」という教訓にも通じるものです。

そのような中で、互いにその道を違えながらも、それぞれ一代の名を成した秋山兄弟は、近代日本において特に注目すべき存在といえるでしょう。

兄弟の数々

明治以後にも、名を成した兄弟は少なくありません。

たとえば甲州の広瀬家では、九人兄弟のうち久政、為久、猛、若尾璋八、神戸久誠らがそれぞれ社会に名を成しました。

四人兄弟には

・郡司 成忠(千島探検家)
・幸田 露伴(文学博士)
・幸田 成友(文学博士)
・幸田 延子(女流音楽家)
・井上 通泰(医博、歌人)
・柳田 國男(土俗学研究家)
・柳田 静雄(言語学者)
・松岡 映丘(書家)

三人兄弟には、

・徳大寺 実則(公爵、元侍従長)
・西園寺 公望(公爵)
・住友 吉左衛門(男爵、財閥家)
・有島 武郎(文士)
・有馬 生馬(書家)
・里見 弴(文士) 

二人兄弟として特筆されるのは、西郷隆盛・従道兄弟、岩崎弥太郎・弥之助兄弟などです。軍人の兄弟としても、大迫尚道・尚敏、百武三郎・源吾、鈴木貫太郎・孝雄、野津鎮雄・道貫など、名を残した例が見られます。

そうした中でも、兄が陸軍、弟が海軍にあって、ともに近代日本の軍事史に名を刻んだ秋山好古・真之兄弟は、きわめて異彩を放つ存在でした。

秋山騎兵団の活躍

秋山好古
秋山好古

兄・秋山好古は、日露戦争における功績によって広く知られています。
とりわけ奉天大会戦において騎兵団を率い、敵騎兵の行動を抑えつつ、乃木軍の迂回作戦を助けて勝利に貢献したことは、よく知られるところです。

好古は1859年(安政6年)正月、伊予松山に生まれました。1879年(明治12年)に陸軍士官学校を卒業して騎兵少尉となり、その後陸軍大学校を卒業、1887年(明治20年)にはフランスへ留学します。在留は四年半に及びました。

帰国後まもなく日清戦争が起こると、騎兵第一大隊を率いて出征し、1902年(明治35年)には少将に進みました。日露戦争では秋山騎兵団長として顕著な働きを示し、その活躍は当時大いに注目されました。

とくに秋山旅団の功績としては、遼陽会戦における第二軍左翼の保護、旅順陥落後の黒溝台での露軍猛攻への対応、そして奉天会戦における乃木軍の迂回運動の支援が挙げられます。これらの働きは、奉天大勝利に少なからぬ影響を与えました。

戦後は騎兵監、万国平和会議委員、騎兵学校長、第十三師団長、近衛師団長、朝鮮軍司令官などを歴任し、1916年(大正5年)には陸軍大将となります。さらに軍事参議官、教育総監を務め、1923年(大正12年)に予備役に編入されました。

晩年には北予中学校長となり、後進の教育にも尽くしました。1930年(昭和5年)、71歳で没しています。郷里松山ではその徳望を慕い、道後公園に銅像が建てられました。

秋山好古銅像
秋山好古大将像

そして好古は、自ら功成り名遂げただけでなく、弟・真之を助け、その成長を支えた兄としても語られています。

敵艦見ゆとの警報

秋山真之
秋山真之

弟・秋山真之は、日本海海戦においてその名を不朽のものとしました。
東郷平八郎司令長官のもとで参謀として働き、あの海戦において重要な役割を果たしたことは、広く知られています。

とりわけ名高いのは、彼が起草したとされる報告文です。

「敵艦見ゆとの警報に接し、聯合艦隊は直に出動、之を撃滅せんとす」
「本日天気晴朗なれども浪高し」
「舷々相摩す」
「天佑と神助により我が聯合艦隊は」

これらの文言は、単なる軍報にとどまらず、海戦の緊迫した空気を今に伝える名文として知られています。真之は、戦術家であると同時に、言葉によって戦況を伝える才にも恵まれていました。

正岡子規
正岡子規

真之は1868年(明治元年)、松山に生まれました。兄・好古とともに育ち、のちに上京して学びます。大学予備門では同郷の正岡子規と親しく交わり、深い友情を結びました。

子規は随筆の中で真之を「剛友」と呼んでいます。英国留学や米国への出発の折に贈った句にも、二人の交情の深さがよくうかがえます。

伯楽を得た千里の馬

広瀬武夫

真之は1886年(明治19年)に海軍兵学校へ進みました。広瀬武夫は一級上にあたり、二人は親しく交わったといわれます。寄宿舎の隣家の女中が、広瀬は恐い顔に似ずやさしく、秋山はそれほど恐い顔ではないがどこか近寄りがたい、と評したという逸話も残されています。

少尉となった真之は、龍驤、松島、吉野、筑紫、和泉、大島、八重山などの各艦に乗り組み、1897年(明治30年)には大尉に昇進、米国留学を命じられました。

東郷平八郎

帰国後は常備艦隊参謀、海軍大学校教官を経て、1903年(明治36年)には聯合艦隊参謀に任じられます。ここで真之は、東郷平八郎という大きな器を得て、その才能を最もよく発揮する機会を得たのでした。

まさに、千里の馬が伯楽を得たというべきであり、東郷元帥が真之の伝記に「秀武精文」という題を与えた背景も、そこにあります。

戦後、真之は海軍大学校教官、三笠副長、秋津洲・音羽・橋立・伊吹の各艦長、第一艦隊参謀長などを歴任しました。1913年(大正2年)には少将に進み、海軍省軍務局長となります。シーメンス事件の処理にもあたり、欧州大戦中には再び海外にも赴きました。のちに第二水雷戦隊司令官となり、1917年(大正6年)には中将に昇進します。

しかし病により待命となり、1918年(大正7年)2月、小田原の別荘で51歳の生涯を閉じました。真之の生涯は、日本海海戦という一大頂点を中心に展開したといってよく、その功績は日本海軍史の一章をなしています。

出典:沢本孟虎著『あの人この人』青山書院、昭和17年、88頁。

まとめ

秋山好古と秋山真之は、同じ松山に生まれ、兄は陸軍、弟は海軍に進み、それぞれの分野で近代日本に大きな足跡を残しました。

好古は騎兵を率いて野戦の将として名を挙げ、やがて教育者としても敬われました。
真之は海戦の参謀として日本海海戦を支え、その名文とともに後世に名を残しました。

この兄ありてこの弟あり。
また、この弟ありてこの兄の大きさもいよいよ明らかになる――そう言いたくなるような兄弟です。

秋山兄弟は、単なる名士の兄弟ではなく、それぞれの持ち場で時代を支えた、近代日本を代表する兄弟の一組だったといえるでしょう。

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