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正岡子規の「見染塚」など逸話7選

  • 公開日:2022/04/07
  • 最終更新日:2022/07/03
正岡子規の逸話

1. 子規のはかない恋

見染塚

1894年(明治24年)の夏、正岡子規が木曽路を経て美濃伏見から舟で木曽川を下り、北方で下船、木曽川停車場から汽車に乗るつもりで駅前の茶店で休憩をします。この時の思い出を、1899年(明治32年7月)に子規が発表した小作品「旅」の中に記しています。

一生に只一度の思ひは残る木曽川の停車場にて、田の中に茶屋三軒、其一軒に憩ひて汽車待ち合わせしに、丸顔に眼涼しく、色黒き女、十六ばかり・・・心の奥迄しみこんで・・・其無邪気な顔どうしても今に忘れられず

正岡子規『旅』

茶屋の女は黒田の松本松之介二女「わく」、1871年(明治4年)生まれ。わくはそうとも知らず子規をせきたて汽車に乗せたといいます。

現在はJR木曽川駅近くの公園に「見染塚」として記念碑が建てられています。

2. 火事とバイバイ

提灯

子規が2、3歳の時、母に連れられて親類に往き、夜になって我家の方角に火事起こる。

母に背負われて帰途に就くが、母の心配をよそに、背にある子規は、

バイバイ、バイバイ

と絶叫して、はなはだ上機嫌であったという。

「バイバイ」とは堤燈(ちょうちん)の事で、子規の眼には、火事は幾千の堤燈に見えていたという。

3. 子規の好物

カボチャ

カボチャとスイカは子規幼時の好物であったらしい。

親族の家へ遊びに行って、飯時に膳が出ると

オバタン、カボタあるかな

と、片言をいって笑わせたものだそうである。

4. 子規のインスピレーション術

渋柿

夏目漱石の出世作『吾輩は猫である』に、正岡子規が紹介されています。

職業によると逆上はよほど大切なもので、逆上せんとなんにもできない事がある。そのうちでもっとも逆上を重んずるのは詩人である。詩人に逆上が必要なる事は汽船に石炭が欠くべからざるようなもので、この供給が一日でもとぎれると彼らは手をこまねいて飯を食うよりほかになんらの能もない凡人になってしまう。もっとも逆上は気違いの異名で、気違いに逆上の名をもってしない。申し合わせてインスピレーション、インスピレーションとさももったいそうにとなえている。(略)そこで昔から今日まで逆上術もまた逆上とりのけ術と同じく大いに学者の頭脳を悩ました。ある人はインスピレーションを得るために、毎日渋柿を十二個ずつ食った。これは渋柿をくらえば便秘する、便秘すれば逆上は必ず起こるという理論から来たものだ。

夏目漱石著『吾輩は猫である』より

漱石がユーモラスに書いている「柿を食った男」こそ、正岡子規その人でした。

5. 正岡子規の癖

森鴎外によれば、「正岡子規は鼻くそを丸めては、そこいらに飛ばす汚い癖があった」と述べています。

これに対して、高浜虚子とともに正岡子規門下の双璧と呼ばれた河東碧梧桐は、こう弁護しています。

河東碧梧桐
河東碧梧桐

鴎外全集に指や小鼻の垢を丸めては、そこらぢうへはぢく、如何にも汚ならしい癖のあつたやうに書いてあるが、少し仰山ながかりか、人違ひでないかとさへ、我々には思はれる。子規は風呂ずきでなく、七日に一度十日に一度といふ位であつたから、無論小ざつぱりしてゐる方ではなかつたが、まさか人を訪問して其の主人側の鼻先きへ丸薬を散発するなどの、無作法を演じる人ではなかった。どうでもいゝやうなことではあるが、一応は子規の名誉の為めに弁護して置きたいのである。

河東碧梧桐著『子規の回想』より

なお碧梧桐によれば、子規には癖らしい癖はなかったと云います。

無くて七癖、敢えて癖をあげるなら、衣服を引きずるように着て、どこかだらしない風であったことかと述べています。

6. 子規と秋山真之の友情

子規庵のレプリカ

正岡子規は『病牀六尺』の中で、竹馬の友・秋山真之について記しています。

枕許にちらかってあるもの、絵本、雑誌等数十冊。置時計、寒暖計、硯、筆、唾壷、汚物入れの丼鉢、呼鈴、まごの手、ハンケチ、その中に目立ちたる毛繻子(じゅす)のはでなる毛蒲団一枚、これは軍艦に居る友達から贈られたのである。(6月7日)

正岡子規『病牀六尺』

秋山真之はアメリカ留学中に、病床の子規の為に体に負担をかけない軽い絹の蒲団を送りました。子規はこれを記した3ヵ月後の1902年(明治35年)9月19日に息を引き取りますが、この時、真之から贈られたこの蒲団を臨終の時まで愛用したといいます。

7. 正岡子規は吉田松陰の生まれ変わり?

作家司馬遼太郎は、正岡子規と明治維新の先覚者である吉田松陰は似ている点が多々あると指摘しています。とくにその文体が似ているといいます。

異常なほどにあかるいその楽天的な文体、平易な言いまわし、無用の文飾のすくなさ、そして双方とも大いなる観念のもちぬしでありながら、実際に見たものについて語るときがもっともいきいきして多弁になるという点などが共通していた。さらに子規が漱石にからかわれたように、暇さえあれば文章を書いているというふうな点でも松陰と子規はそっくりであったし、また文体が、漱石のように簡潔でつよい調子ではなく、なだらかでやや女性的な点でも双方共通している。
もうひとつ余談をいわせてもらえるなら、松陰・子規ともに、この相似た文体のもちぬしが、その性情とどういう関係があるのか、双方とも近世日本が生んだもっともすぐれた教育者であることである。

司馬遼太郎著『花神』より
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