サイ・ヤングと同い年の正岡子規が日本野球に残したその功績とは
西暦1867年、後に「サイ・ヤング賞」で有名なアメリカプロ野球にその名を刻むサイ・ヤングが誕生しますが、その年日本にも、後に日本野球の普及に多大な貢献を残す正岡子規が誕生したのでした。
1. ベースボールに熱中する正岡子規
正岡子規は、東京大学予備門時代にアメリカから伝わったベースボールに夢中になります。
弟子の高浜虚子は、ベースボールに熱中する正岡子規の様子を下記のように記しています。
松山城の北に練兵場がある。ある夏の夕そこへ行って当時中学生であった余等がバッチングをやっているとそこへぞろぞろと東京がへりの四六人の書生がやって来た。余等も裾を短くし腰に手拭をはさんで一ぱし書生さんの積りでいたのであったが、その人々は本場仕込みのツンツルテンで脛(すね)の露出し具合もいなせなり腰にはさんだ手拭も赤い色のにじんだタオルなどであることが先づ人目を欹たしめるのであった。
「おい一寸お借しの」とそのうちでことに脹脛(ふくらはぎ)の露出したのが我等にバットとボールの借用を申込んだ。我等は本場仕込みのバッチングを拝見することを無上の光栄として早速そのを手渡しすると我等からそれを受取ったその脹脛の露出した人は、それを他の一人の人の前に持って行った。その人の風采は他の諸君と違って着物など余りツンツルテンでなく、兵児帯を緩く巻き帯にし、この暑い夏であるのに拘らず尚手首をボタンでとめるようになっているシャツを着、平べったいまな板のような下駄を穿き、他の東京仕込みの人々に比べ余り田舎者の尊敬に値せぬような風采であったが、而も自らこの一団の中心人物である如く、初めはそのままで軽くバッチングを始めた。先のツンツルテンを初め他の諸君は皆数十間あとじさりをして争ってそのボールを受取るのであった。そのバッチングはなかなかたしかでその人も終には単衣の肌を脱いでシャツ一枚になり、鋭いボールを飛ばすようになった。そのうち一度ボールはその人の手許を外れて丁度余の立っている前に転げて来たことがあった。余はそのボールを拾ってその人に投げた。その人は「失敬」と軽く言って余からその球を受取った。この「失敬」という一語は何となく心を牽きつけるような声であった。やがてその人々は一同に笑い興じながら、練兵場を横切って道後の温泉の方へ行ってしまった。
このバッターが正岡子規その人であった事が後になって判った。
高浜虚子『子規居士と余』より
同じく弟子の河東碧梧桐も下記のように述べています。
当時まだ第一高等学校の生徒位にしか知られていなかったベースボールを、私が習った先生というのが子規であった。私の16になった明治21年の夏であったと記憶する。当時東京に出ていた兄から、ベースボールという面白い遊びを、帰省した正岡にきけ、球とバットを依託したから、と言って来た。子規と私とを親しく結びつけたものは、偶然にも詩でも文学でもない野球であったのだ。それで松山のような田舎にいて、早く野球を輸入した、松山の野球開山、と言った妙な誇りをも持っているのだ。
河東碧梧桐談
2. 野球(のぼーる)のペンネーム
病により大好きな野球ができなくなった正岡子規は、その代わりに得意の俳句、短歌、随筆をもって野球の普及に努めます。
正岡子規は自分の幼名である「升(のぼる)」をもじり、「野球」(のぼーる)というペンネームで、
「恋知らぬ 猫のふり也 球あそび」
「久方の アメリカ人の はじめにし ベースボールは 見れど飽かぬかも」
など、野球に関係する句や歌を多数残します。
3. 正岡子規が訳した野球用語
また、ベースボール用語を「直球」、「四球」、「飛球」、「打者」、「走者」と訳し、一般に広めたのは正岡子規の功績といわれています。
3-1. 野球用語の一覧
英語 | 子規の読み方 | 子規の訳 | 現代語 |
---|---|---|---|
Catcher | キャッチャー | 攫者 | 捕手 |
Pitcher | ピッチャー | 投者 | 投手 |
Direct ball | ジレットボール | 直球 | 直球 |
Pitch | ピッチ | 正投 | 投球 |
Ball | ボール | 球 | 球 |
Bat | バット | 棒 | バット |
Home Base | ホームベース | 本基 | 本塁 |
Striker | ストライカー | 打者 | 打者 |
Home in | ホームイン | 廻了 | 生還 |
Runner | ラナー | 走者 | 走者 |
Out | アウト | 除外 | アウト |
Inning | イニング | 小勝負 | イニング |
Game | ゲーム | 全勝負 | ゲーム |
Dead Ball | デッドボール | 死球 | 死球 |
Full Base | フルベース | 満基 | 満塁 |
Dtanding | スタンヂング | 立尽、立往生 | 残塁 |
Out Curve | アウトカーブ | 外曲 | アウトカーブ |
In Curve | インカーブ | 内曲 | インカーブ |
Drop | ドロップ | 墜落 | ドロップ |
Short stop | ショルトストップ | 短遮 | 遊撃手 |
Right Fielder | ライトフィルダー | 場右 | 右翼手 |
Central Fielder | セントラルフィルダー | 場中 | 中堅手 |
Left Filder | レフトフィルダー | 場左 | 左翼手 |
Fly Ball | フライボール | 飛球 | 飛球 |
Fair Ball | フェアボール | 正球 | フェアボール |
3-2. ポジションの解説
(い)本基
(ろ)第一基(基を置く)
(は)第二基(基を置く)
(に)第三基(基を置く)
(一)攫者の位置(攫者の後方に網を張る)
(二)投者の位置
(三)短遮の位置
(四)第一基人の位置
(五)第二基人の位置
(六)第三基人の位置
(七)場右の位置
(八)場中の位置
(九)場左の位置
随筆「松羅玉液」より
4. 上野恩賜公園正岡子規記念球場
5月で開園130周年を迎える東京・上野公園内に「正岡子規記念球場」が誕生する。俳人で歌人でもある正岡子規(1867-1902年)が大の野球好きだったのは有名な話。子規が亡くなるまで野球を楽しんだのが、上野公園だった。都立上野恩賜公園野球場の改修を機に愛称とし、球場脇には野球にちなんだ子規の句碑も建立する。
2006年3月8日「東京新聞」記事より
子規は1886年(明治19年)頃から1890年(明治23年)頃にかけて上野公園内で野球を愉しみました。 子規の随筆「筆まかせ」には、1890年(明治23年)3月21日午後に上野公園博物館横空き地で試合を行ったことが記されており、子規はこのとき捕手でした。
2006年(平成18年)7月、上野恩賜公園開園130周年を記念し、公園内にある球場を「正岡子規記念球場」の愛称とし、球場脇には野球にちなんだ正岡子規の句碑が建立されました。
5. 野球殿堂入り
正岡子規のこれらの功績が評価され、子規没後100年の2002年(平成14年)に、「野球殿堂入り」を果たします。
6. 余談
- 英語のbaseballを日本で最初に「野球」と公式に訳したのは、鹿児島出身の中馬庚(ちゅうまかのえ)になります。 ちなみに、中馬は1888年(明治21年)に東京大学予備門に入校しており、子規の後輩にあたります。
- 海軍で初めて野球を広めたのは、正岡子規の親友・秋山真之と云われています。