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サイ・ヤングと同い年の正岡子規が日本野球に残したその功績とは

  • 公開日:2022/05/27
  • 最終更新日:2026/04/22
正岡子規

1867年、後にアメリカ大リーグの象徴となる投手賞「サイ・ヤング賞」の名を残す サイ・ヤング が誕生しました。

同じ年、日本にも一人の文化人が生まれます。
それが俳人・歌人として知られる 正岡子規 です。

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一見、無関係に思えるこの二人ですが、子規は日本における野球の普及と発展に大きな足跡を残した人物でもありました。

本記事では、文学者・子規が野球にどのように関わり、日本野球に何を残したのかを整理します。

ベースボールに熱中する正岡子規

正岡子規は、東京大学予備門時代にアメリカから伝わったベースボールに強い関心を持ち、熱中します。

当時の日本ではまだ珍しいスポーツでしたが、子規はその魅力にいち早く惹かれ、自らプレーするだけでなく、周囲にも広めていきました。

正岡子規
ユニフォーム姿の正岡子規

弟子の 高浜虚子 は、当時の様子を次のように回想しています。

高浜虚子
高浜虚子

松山城の北に練兵場がある。ある夏の夕そこへ行って当時中学生であった余等がバッチングをやっているとそこへぞろぞろと東京がへりの四六人の書生がやって来た。余等も裾を短くし腰に手拭をはさんで一ぱし書生さんの積りでいたのであったが、その人々は本場仕込みのツンツルテンで脛(すね)の露出し具合もいなせなり腰にはさんだ手拭も赤い色のにじんだタオルなどであることが先づ人目を欹たしめるのであった。

「おい一寸お借しの」とそのうちでことに脹脛(ふくらはぎ)の露出したのが我等にバットとボールの借用を申込んだ。我等は本場仕込みのバッチングを拝見することを無上の光栄として早速そのを手渡しすると我等からそれを受取ったその脹脛の露出した人は、それを他の一人の人の前に持って行った。その人の風采は他の諸君と違って着物など余りツンツルテンでなく、兵児帯を緩く巻き帯にし、この暑い夏であるのに拘らず尚手首をボタンでとめるようになっているシャツを着、平べったいまな板のような下駄を穿き、他の東京仕込みの人々に比べ余り田舎者の尊敬に値せぬような風采であったが、而も自らこの一団の中心人物である如く、初めはそのままで軽くバッチングを始めた。先のツンツルテンを初め他の諸君は皆数十間あとじさりをして争ってそのボールを受取るのであった。そのバッチングはなかなかたしかでその人も終には単衣の肌を脱いでシャツ一枚になり、鋭いボールを飛ばすようになった。そのうち一度ボールはその人の手許を外れて丁度余の立っている前に転げて来たことがあった。余はそのボールを拾ってその人に投げた。その人は「失敬」と軽く言って余からその球を受取った。この「失敬」という一語は何となく心を牽きつけるような声であった。やがてその人々は一同に笑い興じながら、練兵場を横切って道後の温泉の方へ行ってしまった。

このバッターが正岡子規その人であった事が後になって判った。

高浜虚子『子規居士と余』より

また、弟子の 河東碧梧桐 もこう語っています。

河東碧梧桐
河東碧梧桐

当時まだ第一高等学校の生徒位にしか知られていなかったベースボールを、私が習った先生というのが子規であった。私の16になった明治21年の夏であったと記憶する。当時東京に出ていた兄から、ベースボールという面白い遊びを、帰省した正岡にきけ、球とバットを依託したから、と言って来た。子規と私とを親しく結びつけたものは、偶然にも詩でも文学でもない野球であったのだ。それで松山のような田舎にいて、早く野球を輸入した、松山の野球開山、と言った妙な誇りをも持っているのだ。

河東碧梧桐談

つまり子規は、地方に野球を持ち込んだ先駆者でもあったのです。

「野球(のぼーる)」というペンネーム

病により野球ができなくなった後も、子規の野球への情熱は衰えませんでした。

彼は、自身の幼名「升(のぼる)」にちなみ、「野球(のぼーる)」という雅号(ペンネーム)を用います。

そして俳句や短歌を通じて野球の魅力を伝え続けました。

 「恋知らぬ 猫のふり也 球あそび」

 「久方の アメリカ人の はじめにし ベースボールは 見れど飽かぬかも」

文学とスポーツを結びつけた点においても、子規は極めて先進的な存在でした。

野球用語の翻訳という大きな功績

正岡子規の功績として特に重要なのが、野球用語の日本語訳です。

現在では当たり前となっている、

  • 直球
  • 四球
  • 飛球
  • 打者
  • 走者

といった言葉は、子規が翻訳・普及に関わったものとされています。

1. 野球用語の一覧

当時は英語そのままでは理解されにくく、子規の試みは「野球の日本化」に大きく貢献しました。

英語子規の読み方子規の訳現代語
Catcherキャッチャー攫者捕手
Pitcherピッチャー投者投手
Direct ballジレットボール直球直球
Pitchピッチ正投投球
Ballボール
Batバットバット
Home Baseホームベース本基本塁
Strikerストライカー打者打者
Home inホームイン廻了生還
Runnerラナー走者走者
Outアウト除外アウト
Inningイニング小勝負イニング
Gameゲーム全勝負ゲーム
Dead Ballデッドボール死球死球
Full Baseフルベース満基満塁
Dtandingスタンヂング立尽、立往生残塁
Out Curveアウトカーブ外曲アウトカーブ
In Curveインカーブ内曲インカーブ
Dropドロップ墜落ドロップ
Short stopショルトストップ短遮遊撃手
Right Fielderライトフィルダー場右右翼手
Central Fielderセントラルフィルダー場中中堅手
Left Filderレフトフィルダー場左左翼手
Fly Ballフライボール飛球飛球
Fair Ballフェアボール正球フェアボール

2. ポジションの解説

また、随筆『松羅玉液』ではポジション配置なども詳細に解説しており、
単なる愛好者ではなく、理論的に野球を伝えた人物でもあります。

(い)本基
(ろ)第一基(基を置く)
(は)第二基(基を置く)
(に)第三基(基を置く)

(一)攫者の位置(攫者の後方に網を張る)
(二)投者の位置
(三)短遮の位置
(四)第一基人の位置
(五)第二基人の位置
(六)第三基人の位置
(七)場右の位置
(八)場中の位置
(九)場左の位置

随筆「松羅玉液」より

上野恩賜公園と子規の野球

子規は1886年(明治19年)頃から1890年頃にかけて、この地で野球に親しみました。

随筆『筆まかせ』には、1890年3月21日に試合を行い、子規が捕手を務めた記録が残されています。

その功績をたたえ、2006年には園内の球場が「正岡子規記念球場」と名付けられ、句碑も建立されました。

5月で開園130周年を迎える東京・上野公園内に「正岡子規記念球場」が誕生する。俳人で歌人でもある正岡子規(1867-1902年)が大の野球好きだったのは有名な話。子規が亡くなるまで野球を楽しんだのが、上野公園だった。都立上野恩賜公園野球場の改修を機に愛称とし、球場脇には野球にちなんだ子規の句碑も建立する。

2006年3月8日「東京新聞」記事より
春風やまりを投げたき草の原

この一句からも、子規の野球への愛情が感じられます。

野球殿堂入りという評価

子規の野球への貢献は後世に高く評価され、没後100年にあたる2002年、野球殿堂入りを果たしました。

文学者としてだけでなく、日本野球の発展に寄与した文化人として正式に認められたのです。

正岡子規 – 野球殿堂博物館

余談:野球という言葉の誕生

なお、「ベースボール」を正式に「野球」と訳したのは、鹿児島出身の中馬庚とされています。中馬は子規の後輩にあたり、同じく野球の普及に関わった人物です。

また、海軍に野球を広めたのは、子規の親友である秋山真之と言われています。

まとめ

正岡子規は、俳句革新の中心人物であると同時に、

  • 野球の早期普及
  • 野球用語の翻訳
  • 文学による普及活動

を通じて、日本野球の基盤づくりに大きく貢献しました。

サイ・ヤングと同じ年に生まれ、一方はアメリカ野球の象徴に、もう一方は日本野球の文化的礎となった――

この対比は、実に興味深いものがあります。

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