日清戦争開戦と高陞号事件|東郷平八郎の決断と国際法の評価

1894年(明治27年)、日清戦争の開戦とほぼ同時に発生した「高陞号事件」。
これは、日本海軍の判断が国際問題へと発展した、きわめて重要な出来事です。
指揮を執っていたのは、のちに日本海海戦で名を残す東郷平八郎。
本記事では、この事件の経緯と背景、そして国際社会の評価を通して、「なぜ東郷の判断は正当とされたのか」をわかりやすく解説します。
高陞号事件とは何か

1894年7月25日、日本海軍の巡洋艦「浪速」は、朝鮮半島沖で一隻の大型汽船を発見します。
それがイギリス船籍の輸送船「高陞号」でした。
しかし、この船には清国の兵士約1,100名と兵器が積まれており、
日本軍に対する増援部隊として牙山へ向かっていたのです。
浪速の艦長であった東郷は、停船と投錨を命じます。

しかし──
船内では清国兵が反乱状態となり、船長の指示が通らない状況に陥っていました。
交渉は約2時間半に及びますが、最終的に東郷は決断します。
「命令に従わぬ以上、撃沈やむなし」
こうして浪速は魚雷と砲撃をもって高陞号を撃沈しました。
多数の犠牲と救助の実態
この事件では、約1,000名以上が海に沈みました。
東郷は欧米人の救助には一定の配慮を見せたものの、
清国兵の多くは救助されず、逃げる兵に対して射撃も行われています。
この対応は後に強い批判を招く要因ともなりました。
国際問題へ発展
この事件に関して、イギリスは日本政府に、
日本海軍将校の措置から生じた、英国民の生命財産の損害に関しては、日本政府はその責に任ずべきものである
と、抗議してきました。
これに政府は慌て、海軍大臣の西郷従道は、いろいろと弁明しますが、閣僚たちはこれを聞き入れず、当時の首相である伊藤博文も、
こんな重大事件を惹き起して、海軍はその責任をどうするつもりだ💢
と、卓上を叩きながら怒鳴りつけたといいます。
しかし、当の東郷平八郎は、
東郷の致したことに不条理はござらぬ
と、一切譲らず、国家の判断に委ねる姿勢を貫きます。
この時、東郷は、もし国家に累を及ぼすようなことがあったならば、その時は自決する覚悟していたと伝えられています。
国際法学者ホルランドの見解
事態を左右したのが、イギリスの国際法学者トーマス・アースキン・ホルランドの見解でした。
彼は新聞紙上で、日本の行動は国際法上問題ないと論じます。
高陞号が撃沈された時は、すでに戦争の始まった後である。蓋し、戦争というものは、豫め宣告することなくして、これを始めても、少しも違法の措置ということはできない。このことは、英国及び米国の法定で、幾度となく確定せられたところである。
ホルランドの国際法的見解より
さればたとへ高陞号の船員は、初め戦争が既に起こったことを知らなくても、日本の士官がわが船に乗りこんで来た時、これを承知したものと見做さねばならぬ。
この時に当たってその船が英国の国旗を掲げていたといないとは、敢えて注意するにたらない一些事に過ぎない。
当時日本の軍艦は、捕獲の目的をもって、高陞号に兵員を乗船せしむることは、とうてい実行できないという見込みをもっていたので、日本の艦長は、高陞号をその命令に従はしむるためには、いかなる暴力を用いるとも、それは固よりその権内にあることを知らねばならぬ。そもそも、高陞号には、日本軍攻撃のため派遣せられた遠征の一部隊が乗船していたので、日本人がその目的に達することを防止するためには、これを撃沈したことも、正当の所為といはねばならぬ。
また沈没後に救助せられた船員は、何れも規則通り、自由の身となることができたので、この点もまた日本の行為は、国際法に違反したものということはできない。
故に日本政府は、これがため決して英国に対するの義務なく、また船主及び溺死せる欧人等の家族は、日本に対して、損害を要求する権利はない。
要約すると、理由は以下の通りです。
- 高陞号は敵兵輸送という「軍事目的の船」であった
- 戦争は宣戦布告なしでも開始され得る
- 命令に従わない船への武力行使は正当
この論文により、イギリス世論は徐々に沈静化していきました。
海事裁判の判決
最終的に、長崎および上海で開かれた海事裁判では
「責任は清国側にある」
と判断され、日本政府の賠償責任は否定されます。
これにより、高陞号事件は外交問題としては収束しました。
まとめ|東郷の決断はなぜ認められたのか
高陞号事件は、
- 軍事行動
- 国際法
- 外交問題
が複雑に絡み合った出来事でした。
結果として東郷の判断は正当とされましたが、その裏には多くの犠牲と、紙一重の外交判断があったことも忘れてはなりません。
この事件は、日清戦争の序盤における重要な転換点であり、近代日本が国際社会の中でどのように振る舞うべきかを示した象徴的な出来事といえるでしょう。


