児玉源太郎の人物評|“今藤吉郎”と呼ばれた理由とその実像

明治日本には、多くの優れた軍人が存在しました。
その中でも、川上操六、桂太郎と並び「明治陸軍の三傑」と称されたのが、児玉源太郎です。
しかし彼の真価は、単なる戦術家としてではありません。
戦争を動かす「全体」を見渡し、政治・行政・軍事を統合して動かす力にこそ、その本質がありました。
本記事では、同時代人たちの証言を通して、児玉源太郎という人物の実像に迫ります。
目次
児玉源太郎とは

児玉源太郎は1852年(嘉永5年)、周防国徳山藩に生まれました。
幼少期には家の断絶という不遇を経験しますが、のちに家を再興し、自らの力で道を切り開いていきます。
明治維新では東征に参加し、その後も
- 佐賀の乱
- 神風連の乱
- 西南戦争
といった動乱を通じて実戦経験を積みました。
とくに西南戦争では熊本鎮台の参謀として籠城戦を指揮し、その才覚を広く知られることになります。
やがて児玉は、戦場だけでなく、軍制改革や人材育成にも力を注ぎ、ドイツからヤーコプ・メッケルを招いて陸軍の近代化を推進しました。
さらに台湾総督としては、後藤新平を登用し、統治の安定化に大きく貢献します。
そして日露戦争に際しては、あえて大臣の地位を捨て、参謀本部次長として戦争指導の中枢に入るという決断を下しました。
これは名誉ではなく「国家のために最も必要な位置」に自らを置いた行動でした。
満州軍総参謀長として大山巌を補佐し、戦争全体を統括した児玉は、実質的に日露戦争を動かした人物といっても過言ではありません。
「理想の天分に恵まれている」メッケル少佐談
ドイツから招聘された軍事顧問メッケルは、日本陸軍の将校の中で誰が優れているかと問われ、即座に児玉の名を挙げています。

日本陸軍のドイツ・モデル採用決定にともない、ドイツより招聘し、参謀本部顧問・陸軍大学校教官として教育や建築、戦術指導を行い、創設期陸軍に多大な影響を与えたメッケルに、ある人が極めて率直に、「我が陸軍に於ける英才は誰なりや」 と質すと、彼は少しも躊躇せず、
「児玉源太郎と小川又次であろう。この両大佐のみは、作戦計画の真意義を諒解しておるが、殊に児玉は非凡人であり、器局が大きく、進言を容れ、他人にも聴くので、その参謀たり、師団長たり、軍司令官として大兵を率いて過誤あらず、自由に動かす能力があり、理想的の天分に恵まれておる」
さらに日露戦争に際しては、
「日本にはゲネラル・コダマがいる限り、勝利は疑いない」
とまで語ったと伝えられています。
ここから見えてくるのは、児玉が単なる秀才ではなく、全体を統御できる「大将の器」を備えた人物であったという評価です。
「軍服を着た政治家」鳥谷部春汀談
日清戦争において川上子爵の帷幄に参画せし事が戦捷の一大原動力たりしことはもちろん異論なしと雖も、もし児玉男爵の後方勤務の宜しきを得たるものなくば、百の川上ありと雖もいづくんぞ能く名誉ある戦捷を得んや。漢の高祖は蕭何の後方勤務を評して、張良の政略、韓信の戦功と優劣なしと論ぜり・・・・・・。
又軍備問題といえば特に川上子爵の手に成れりと想像する者あり。川上子爵もとより軍備計画者の一人なりと雖も、この計画を完成し、閣議を通過せしめ、議会を協賛せしめたる者は主として児玉を推さざるを得ず。
彼は軍服を着たる政治家にして、その長所は戦略に非ずして寧ろ政略に在り。彼の軍人部内に勢力あるは、軍人として卓越せる才能あるに非ずして軍人の最も短所とする行政的手腕を有するためなり
(日清戦争の功績を評して)
日清戦争において、前線の勝利を支えたのは、後方で軍事・政治・財政を調整した児玉の手腕であったとされます。
彼の真価は戦術そのものではなく、
- 政策をまとめ
- 議会を動かし
- 国家として戦争を成立させる
という「政略」にありました。
これは軍人としては異例の評価であり、児玉がいかに総合的な能力を持っていたかを物語っています。
「軍事行政家としては第一人である」大隈重信談
大隈重信は、児玉の行政能力について次のように語っています。
とにかく軍事行政家としては第一人であると思う。何年であったか、吾輩が内閣に居った時に、陸軍次官として度々閣議に列したが、軍人肌とは言うものの如何にも闊達で、常に洒洒落々、そしてあの様に複雑難事な陸軍の行政事務を一手に引受けて、快刀乱麻を断つが如く、一々処理し去って、些かの混雑さえも生じさせなかった眼識と技量と明晰なる頭脳とは実に驚く可きものを有して居た。
児玉は現場の指揮官であると同時に、国家の制度を設計・運用できる稀有な存在でした。
戦争は前線だけでは勝てません。
その裏側にある組織・制度・補給を整える力こそが、勝敗を分けます。
児玉はその「見えない部分」を完璧に機能させた人物でした。
「児玉の児玉たる所以」乃木希典談
乃木希典は、児玉の戦い方をこう表現しています。

児玉の策戦と云えば如何にも放胆で、且つ細心驚くばかりなので非常に其敵から恐れられたものでした。それで能く命令通りに少しの間違いもなく軍隊を操縦した点など児玉の児玉たる所以でしょう。
ある時、小金で対抗演習があった。その時児玉と古谷の連隊でしたが、ある夜真っ暗な中を少しの乱雑も生じさせずに軍をまとめて背進運動をした如きは今日に至るまで好話柄となっております。
大胆さと緻密さを兼ね備え、命令を正確に遂行する統率力――
これこそが児玉の軍人としての本質でした。
夜間の演習においても、混乱なく部隊を動かした逸話は、彼の統率能力の高さを象徴しています。
「佐命の功臣」東京朝日新聞追悼記
児玉が参謀本部に復帰した際、世論はこう評しました。
疑いもなくこの人は佐命の功臣(天子の創業を扶けた功臣)の一人なり。再昨年(明治36年)の秋、参謀次長の田村中将逝去の後、この人が内務大臣より一転下し、フロックコートを脱いで再び軍服をつけ、急に参謀本部に入れる時は、わが国民100人中99人までは皆露国との戦争の到底避くべからざることを内々に覚悟しおりたる際なりしが、相語って曰く、よくも就きたり、又よくも就かしめたりと。蓋しこの人の果決、精毅が国民の信頼を得ありしによる
これは単なる人事ではなく、国家の命運を託す決断として受け止められていたのです。
児玉の果断と責任感は、国民から絶大な信頼を得ていました。
「今藤吉郎」と呼ばれた男
当時の軍人たちは戦国武将になぞらえて評価されていました。
明治期の陸軍軍人で、田村怡与造は「今信玄」、小川双次は「今兼信」の異名で呼ばれていました。その中で児玉は「今藤吉郎(豊臣秀吉)」と呼ばれます。
理由は
- 小柄な体格
- 現場主義
- どんな困難も自ら引き受ける姿勢
にありました。
台湾統治の苦闘や、日露戦争での献身は、まさに秀吉のそれに重なります。
もし早逝していなければ、さらに大きな役割を担っていたであろうことは疑いありません。
まとめ:児玉源太郎とは何者だったのか
児玉源太郎は、いわゆる「名将」という言葉だけでは語りきれません。
彼は
- 戦場を知る軍人であり
- 国家を動かす政治家であり
- 組織を整える行政家でした
つまり、「戦争を勝たせる仕組み」を作ることができた人物です。
明治という激動の時代において、児玉源太郎ほど「全体を見て動かした人物」は多くありません。
その存在こそが、日本が近代国家として戦い抜くことを可能にした――
そう言っても過言ではないでしょう。


