征韓論とは|明治政府を揺るがせた対朝鮮政策論争をわかりやすく解説

  • 公開日:2026/05/08
  • 最終更新日:2026/05/23
歴史用語集

征韓論(せいかんろん)とは、1873年に明治政府内で起こった朝鮮への対応を巡る政治論争です。

特に西郷隆盛が朝鮮派遣を主張したことで有名です。

この対立は明治政府を大きく揺るがし、その後の西南戦争へもつながっていきました。

よくある質問
征韓論とは何ですか?
朝鮮への対応を巡る明治政府内の政治論争です。
誰が中心人物ですか?
西郷隆盛 が中心人物として知られています。
なぜ重要なのですか?
明治政府分裂や西南戦争へつながったためです。

→ 詳しいQ&Aはページ下部をご覧ください

征韓論とは簡単にいうと?

簡単に言えば、征韓論とは「朝鮮へ強硬対応を取るべきかを巡る対立」です。

  • 1873年に発生
  • 明治政府内の政治対立
  • 朝鮮問題が発端
  • 西郷隆盛が中心人物
  • 明治六年政変へ発展した

なぜ征韓論が起きたのか

朝鮮との外交問題

明治政府は朝鮮との外交関係構築を進めていました。

しかし、朝鮮側は明治政府を十分認めず、日本側使節受け入れも拒否します。

これによって日本国内で不満が高まっていきました。

士族不満問題

明治維新後、多くの士族が職や特権を失います。

政府内には、国外へ活路を求める考えもありました。

そのため、朝鮮問題は国内不満とも結びついていきます。

西郷隆盛の主張

西郷隆盛は、自ら朝鮮へ使節として赴くことを提案しました。

もし朝鮮側が無礼な対応を取れば、それを理由に武力行使も可能になると考えられていました。

この考えが「征韓論」として知られるようになります。

大久保利通・岩倉具視との対立

一方、大久保利通や岩倉具視らは征韓論へ反対しました。

彼らは日本国内改革を優先すべきだと考えていたのです。

また、日本はまだ近代化途中であり、海外戦争を行う余力が不足しているとも判断していました。

明治六年政変

最終的に政府は征韓論を退けます。

これによって西郷隆盛や板垣退助らは政府を去りました。

この政治対立は「明治六年政変」と呼ばれています。

西南戦争との関係

政府を去った西郷隆盛は鹿児島へ戻ります。

その後、士族不満はさらに高まり、1877年に西南戦争が起こりました。

そのため、征韓論は西南戦争へつながる重要な転機とも言われています。

征韓論と近代国家形成

征韓論争は、明治政府がどの方向へ進むかを巡る対立でもありました。

外征を優先するか、国内近代化を優先するかという問題だったのです。

結果として政府は内政優先路線を選び、日本近代化を進めていきました。

『坂の上の雲』との関係

『坂の上の雲』で描かれる近代日本は、征韓論争後に形成された国家体制の上にあります。

陸海軍整備や近代化政策も、内政優先路線によって進められました。

そのため、征韓論を理解すると、明治国家形成の流れも理解しやすくなります。

征韓論の歴史的意義

  • 明治政府最大級の政治対立となった
  • 西郷隆盛下野へつながった
  • 西南戦争の遠因となった
  • 内政優先路線を決定づけた

征韓論のポイントまとめ

  • 1873年に起きた政治論争
  • 朝鮮問題を巡る対立だった
  • 西郷隆盛が中心人物
  • 明治六年政変へ発展した
  • 西南戦争へも影響した

関連年表

よくある質問(Q&A)

征韓論とは何ですか?
朝鮮への対応を巡って起きた明治政府内の政治論争です。
なぜ征韓論が起きたのですか?
朝鮮との外交問題や士族不満が背景にありました。
西郷隆盛は何を主張したのですか?
西郷隆盛 は自ら朝鮮へ赴くことを提案しました。
なぜ大久保利通らは反対したのですか?
国内近代化を優先すべきだと考えたためです。
明治六年政変とは何ですか?
征韓論を巡って政府が分裂した政治事件です。
西南戦争との関係はありますか?
はい。 西南戦争 へつながる重要な転機となりました。
征韓論を理解すると何が分かりますか?
明治政府がどのように近代国家路線を選択したかを理解しやすくなります。

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