明治六年政変とは|征韓論と西郷隆盛の下野をわかりやすく解説

明治六年政変(めいじろくねんせいへん)とは、1873年(明治6年)に起きた明治政府内部の大きな政治対立です。
きっかけとなったのは、征韓論をめぐる対立でした。
西郷隆盛らは朝鮮への使節派遣を主張しましたが、岩倉具視や大久保利通らは反対します。 最終的に西郷隆盛らは政府を去ることになりました。
この出来事は、後の西南戦争や自由民権運動へつながる、日本近代政治の大きな転換点となります。
- 明治六年政変とは何ですか?
- 明治六年政変とは、1873年に起きた征韓論をめぐる政府内対立です。 詳しい背景は 征韓論 をご覧ください。
- なぜ明治六年政変が起きたのですか?
- 朝鮮問題への対応をめぐり、西郷隆盛らと大久保利通らが対立したためです。
- 明治六年政変の結果はどうなりましたか?
- 西郷隆盛らが政府を去り、その後の 西南戦争 や自由民権運動へつながっていきました。
→ 詳しいQ&Aはページ下部をご覧ください
明治六年政変とは簡単にいうと?
簡単に言えば、明治六年政変とは「征韓論をめぐる政府内対立」です。
- 西郷隆盛らが征韓論を主張した
- 岩倉具視・大久保利通らが反対した
- 西郷隆盛らが政府を辞職した
- その後の西南戦争へつながった
明治政府内部の路線対立が表面化した事件でした。
なぜ明治六年政変が起きたのか
最大の原因は、朝鮮への対応をめぐる考え方の違いでした。
征韓論をめぐる対立
1873年、西郷隆盛は朝鮮へ使節を送るべきだと主張しました。
背景には、朝鮮が明治政府を正式な外交相手として認めなかった問題があります。
西郷は自ら朝鮮へ赴き、外交交渉を行おうと考えていました。
岩倉具視・大久保利通の反対
しかし、岩倉具視や大久保利通らは征韓論に反対しました。
当時の日本は、まだ国内改革の途中だったためです。
- 財政が安定していなかった
- 軍備が不十分だった
- 地租改正などの改革途中だった
- 海外戦争を行う余裕がなかった
そのため、政府は征韓論を採用しませんでした。
西郷隆盛の下野
征韓論が退けられた結果、西郷隆盛は政府を去ります。
さらに、板垣退助、江藤新平、副島種臣らも辞職しました。
これが「明治六年政変」です。
明治政府はここで大きく分裂することになりました。
明治六年政変の影響
明治六年政変は、その後の日本政治へ大きな影響を与えました。
西南戦争へつながる
政府を去った西郷隆盛は鹿児島へ戻ります。
その後、士族不満が高まり、1877年には西南戦争が起こりました。
これは明治政府最大の内戦となります。
自由民権運動へ
また、板垣退助らは政府を去った後、 自由民権運動を進めるようになります。
つまり明治六年政変は、 「士族反乱」と「政治運動」の両方につながる重要事件でした。
明治六年政変のポイントまとめ
- 1873年に起きた明治政府内部の政治対立
- 征韓論をめぐって政府内が分裂した
- 西郷隆盛らが政府を去った
- 後の西南戦争へつながった
- 自由民権運動にも影響を与えた
よくある質問(Q&A)
- 明治六年政変とは何ですか?
- 明治六年政変とは、1873年(明治6年)に起きた明治政府内部の政治対立です。 主に 征韓論 をめぐる対立によって起こりました。
- なぜ明治六年政変が起きたのですか?
- 朝鮮への対応をめぐり、西郷隆盛ら征韓派と、岩倉具視・大久保利通ら反対派が対立したためです。
- 西郷隆盛はどのような立場だったのですか?
- 西郷隆盛は朝鮮へ使節を送るべきだと主張しました。 詳しい人物像は 西郷隆盛の解説 をご覧ください。
- 明治六年政変で誰が政府を去ったのですか?
- 西郷隆盛、 板垣退助 、江藤新平、副島種臣らが政府を去りました。
- 明治六年政変と西南戦争は関係がありますか?
- 関係があります。 政府を去った西郷隆盛は鹿児島へ戻り、その後の 西南戦争 へつながっていきました。
- 明治六年政変は自由民権運動にも影響しましたか?
- はい。 板垣退助らは政府を去った後、自由民権運動を進めるようになります。
- 明治六年政変を理解すると何が分かりますか?
- 明治政府内部の対立構造や、西郷隆盛が下野した背景を理解できます。 まずは 征韓論 → 西南戦争 の順で読むと流れが分かりやすくなります。

