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日本海軍の父、山本権兵衛の人物評5選

  • 公開日:2022/07/04
  • 最終更新日:2022/07/31
山本権兵衛

目次

1. 山本権兵衛とは
山本権兵衛
山本権兵衛

山本権兵衛(ごんのひょうえ)は、1852年(嘉永5年)10月15日、鹿児島の加治屋町に生まれる。加治屋町といえば、西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平八郎などの出生地である。家柄は恒武平氏の出で、父五百助盛珉(いおすけもりたか)は薩摩藩の右筆であった。

薩英戦争

1863年(文久3年)の薩英戦争では砲弾運搬などの雑役に加わる。12歳の初陣であった。16歳の時、薩摩藩の藩兵募集に18歳と偽って採用され、薩摩藩兵小銃第八番小隊に編入される。

明治維新

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1867年(慶應3年)藩主島津忠義に従って上京、翌年鳥羽伏見の戦い、ついで戊辰戦争に軍功をたてる。

海軍

1869年(明治2年)、薩摩藩から派遣されて東京に遊学。西郷隆盛の紹介で勝海舟の食客となり、海軍を志望する。海舟から有形無形の指導を受ける。同年9月に築地に海軍操練所(後の海軍兵学寮)が設けられ、薩摩藩推薦の貢進生として入所。

1873年(明治6年)10月、「征韓論」問題で西郷隆盛らが連結辞職し帰郷したことについて、江藤新平の書いた文書を読み、政府に対する不信の意を強めた結果、直接西郷に会って真相を確かめようと鹿児島に帰郷し西郷に会う。この時、西郷から日本の将来にとって海軍がいかに重要なものかを説かれ、納得して兵学寮に戻る。

1874年(明治7年)、海軍兵学寮を卒業、1877年(明治10年)、ドイツ軍艦に搭乗し各地を航海していたので、西南戦争には従軍しなかった。この頃ドイツがニカラグアとの紛争に山本らを使おうとしたので、日本政府は山本らの召喚を要請し帰国する。帰国後津沢鹿助の三女登喜子と結婚、そして海軍中尉に任ぜられる。

高千穂艦長、海軍省主事などを歴任。山本の転機となったのが、1892年(明治25年)11月に開かれた第四回議会での予算案をめぐり、政府提出の予算案は野党の自由、改進両党により軍艦製造費を削減された。予算案は再検討され建艦費は復活されたが、総額として260万円が削減されたので行政整理断行が必要となった。この時既に山本は海軍諸制度の根本改革整理を構想、秋ごろまでに成案を得ていた。大臣官房主事として山本は人事の整理登用に公平を期し、この時斎藤実、出羽重遠、山下源太郎、岡田啓介、名和又八郎ら薩摩以外の出身者が多く登用された。この人員整理問題をきっかけに山県有朋、井上馨、井上毅らと会い、力量を認められることになった。

日清戦争

1894年(明治27年)、日清戦争には大本営にあり活躍、イギリス船高陞号事件では、山本の沈着な処置により日英間に事なきを得た。1898年(明治31年)山県内閣の海軍大臣となり、さらに伊藤、桂両内閣に重任した。西郷従道らのもとで日本海軍の育成に貢献し、薩摩閥の後継者となった。

日露戦争

1904年(明治37年)、日露戦争では東郷平八郎を連合艦隊司令長官に大抜擢するなど、大本営幕僚長として活躍する。

政界

1907年(明治40年)伯爵となる。1913年(大正2年)、大正政変により政友会を与党に第一次山本内閣を組織し、軍部大臣武官制の現役規定を廃止したが、翌年シーメンス事件で退陣。1923年(大正12年)、関東大震災後の首相となり、その復興に努力したが、虎ノ門事件の勃発により翌年辞職した。

日本海軍の発達に貢献した所が多く、「日本海軍の父」と呼ばれる。

2. 「予は個人として君に敬服すること三点あり」伊藤博文談

予は個人として君(伯)に敬服すること三点あり。この三点は余の先輩木戸、大久保も三舎を避けんか。第一、人を見るの明、即ち今次東郷中将を司令長官に推せるが如き事、第二、海軍の教育訓練を初とし諸般の施設準備に到る迄、真に慎密周到にして至れり尽せりなる事。第三は未だ口外するの時機に非ず云々。

(明治37年4月23日の晩伊藤侯官邸にての談)

3. 「山本の人物の大きいところは」上村彦之丞海軍大将談

山本の人物の大きいところは、世に偉人傑士と言われる者よりも一段勝れた様に見える。先づ近来の偉傑に比べて考えれば、西郷隆盛の人物の偉きところへ、大久保利通の器量の勝れたところをこね混ぜた様な者である。実に偉い人物が出来たものと思う。これは独り彦之丞の意見ではない。誰でも権兵衛に接触、親灸した者は皆等しく感ずるところだ。

4. 「人事に注意を払う」岡田啓介海軍大将談

海軍の進級会議が初まる前にはその進級する停年に達した人、即ち資格を具て居る人の考課表をスッカリ整理するのであるが、伯はその整理を待って、少なくとも三日間位は之に目を通しチャンと一人一人に就いて知って居られた。そして議論が紛糾すると伯は自分では彼是言わず「本人の考課表を読んで見よ」と言われ万事は定まった。伯が如何に人事に注意を払われたかが肯かれる。

5. 「右顧左眄(うこさべん)す可からず」黒井悌次郎海軍大将談

伯は道を歩くのに常に真正面のみを直視して、決して脇見や振り返って見る事をされなかった。海軍省の廊下を歩くのにも同じで、恐らく伯一生の常習であったろう。市内散歩の時でも例外はなかった。是は伯の信念であり、モットーでありました。「人間は其正しと信ずる所に向て須らく直進す可く右顧左眄す可からず」を処世の上にも一貫して居られたのである。

6. 「是を是とし、好を好とし、悪を悪とした」徳富蘇峰談

伯は薩人以外には尤も伊藤公に知られた。後進でありつつ山県公に取っては自ら隠然一敵国を做さしめた。伯は是を是とし、好を好とし、悪を悪とした。故にその味方と同時に、敵も少くなかった。しかもその君国に酬いる志にいたりては、何人も之を疑う者はなかった。公人としての伯は実に重くしてかつ威ある人物であった。

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