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東郷平八郎の名言・語録

  • 公開日:2022/06/13
  • 最終更新日:2022/07/03
東郷平八郎

1. やはり示現流

東郷平八郎が英国留学から帰朝した時に、友人が、英国海軍の模様いかにと尋ねた。

東郷はただ一言、「やはり示現流」と答えた。

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この示現流とは、彼が青年時代に薩州で学びたる剣法一派の名であるが、この剣法は大なる長き棒を用いて、立木を幾回となく精力の続く限り掛声をなして打つのであって、寒暑を問わず未明に起きて、稽古するのであるから、この剣法の流行するところは、打つ音や叱咤の声が非常に賑やかで、尚武の気象が、知らず知らずの間に、鼓舞せらるるのである。

東郷平八郎が示現流と答えたのは、戦術の形式は、いろいろと相違があるけれども、その戦術を実際に行う精神は、やはり示現流をやる精神と同じことにて、決して相違あるものではないという意味である。

2. 海から来る敵は海にて防ぐべし

1863年(文久3年)、生麦事件の賠償交渉不調により、同年6月27日クーパー提督率いるイギリス艦隊7隻が代理公使クールらを乗せ鹿児島に遠征し、鹿児島藩に犯人の逮捕処罰・25,000ポンドの賠償金を要求したが、交渉は不調に終わる。

イギリス側は強硬手段を行使し、7月2日・3日の交戦でイギリス艦はアームストロング砲の凄まじさを見せ付け鹿児島城下を焼き、全砲台を大破した。しかし、イギリス側も旗艦艦長や副長が即死、60余人が死傷の損害を被った。

鹿児島藩は9月28日から3回にわたり、横浜のイギリス公使館でニールと講和談判を行い、10月5日和議が設立。以後薩英関係は親密度を増やし、鹿児島藩は軍備などの近代化をすすめた。

この薩英戦争が初陣となった東郷平八郎は、「海から来る敵は海にて防ぐべし」と誓ったという。

3. 咲くもよし散るもよし野の山桜、花のこころは知る人ぞ知る

咲くもよし散るもよし野の山桜、花のこころは知る人ぞ知る

これは東郷平八郎が小笠原長生に贈った和歌です。

小笠原長生はこの句に東郷元帥の一生に通じるものと感銘し、下記のように述べます。

咲くべくして咲き、散るべくして散る。
それでよいので、その他に齷齪(あくせく)したとて何になる。 世人が三日見ぬ間にとあわてようが、夜半に嵐の吹かぬものかはと歎こうが、如斯瑣少な感傷はこれを超越して大自然に一如し、飽くまで自己の本分に安じて梅をも真似ず牡丹にも倣わず、以て静かに天命を楽しむところに桜の真価が存するのではある。

咲く時の勇ましさと、散り際の潔さとを人事に譬えるなら、進むべきには迅雷を掩うに暇あらざらしめ、退くに当りては高踏清嘯その処に晏如たる底のもので、達徳の士にあらざれば及ばぬ境涯である。

人間は誰でも然うであるが、就中(なかんづく)支配階級の者が慎重に考えねばならぬのは、出処進退ということであって、古来幾多の俊傑が、その終を完うし得なかったのは、多く之を誤ったが為である。然うして更にその誤った原因を討究して見ると、徒に不相当な野心に囚はれ、自己の守るべき本分を忘れて名利の奴隷となるからで、さあ斯うなっては出処進退を慎重に考慮するの余裕など出来よう筈なく、終には他より爪弾きせらるるまでになり、多感の詩客をして「英雄の末路」などという哀れな熟語を使用させるに至るのである。

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