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乃木希典の人となりが表れる逸話6選

  • 公開日:2022/07/18
乃木希典

1. 軍服で押し通す

乃木希典は新婚の初夜、花嫁の静子を放ったらかしにして酒を飲みに出かけほど、若い頃はかなり荒っぽい遊びをしていましたが、1888年(明治21年)、2年間のドイツ留学をを終えて帰ってくると、ガラリと変わって、衣食住にはまるで頓着しなくなります。

近衛歩兵第二旅団長になってからは、起きてから寝るまで軍服で通し、寝間着のほかには和服を一枚も持たず、三度の食事は冷飯にカボチャ。客があると、七色汁を出します。しかも、その客は軍服を着用したものを上座に据え、軍服以外のものは、たとえ官職の高いものでも末座におきます。

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乃木は西南戦争で連隊長の時、軍旗を賊に奪われたのを恥じ、軍人に徹することで君国につくそうと一心不乱になっていたのでした。

2. 日露戦争出陣と遺言

乃木大将の令息
(写真向って左が兄勝典、右が弟保典)

乃木希典将軍が、日露戦争の出征に、いよいよ出発というその前日、東京の自邸に送別の宴を張ったのが、1905年(明治37年)5月26日でした。 この日の将軍の日記には、

本日、皇太子殿下より拝領の清酒は、午時司令部に分配。自宅にて鮨を作り、親族を招く。中尾氏勝武士(鰹節)一袋持参、葬式のこと遺言。夜十一時廟を拝す

と、簡潔な文面にて記しています。

招かれた親類縁者には、静子夫人の手料理になるお鮨が出され、送別の宴半ばに、夫人への遺言が申し渡されたのでした。

さて、勝典、保典、及び自分の三人とも戦場へ向った以上、生きて還る事は先づあるまい。三人のうち誰が真先に討死をしても、戦争が終るまでは葬いをしてくれるな。何れ三人の遺骨が揃った処で、親子三人一緒に柩を出してくれ。よいか

夫人は動ずる色もなく、

はい、仰せを守ります

と一言。

この夫妻の泰然たる態度には、同席の親族の人々は、密かに涙を呑んだといいます。

あたかもこの日は南山の激戦の日でした。第一、第三、第四の三ヶ師団が、前夜来の猛雨と濃霧を冒して突撃また突撃、一方金州湾にある4隻の軍艦が、これに呼応して砲撃を加え、水陸両面から攻立てたので、さしもの堅塁も遂に潰滅、ロシア兵は82門の山砲を棄てて辛くも旅順方面へ逸走した。

この時、日本軍の死傷者実に約4,300名。多くの死傷者の中に、乃木将軍の長男勝典がいました。敵弾のため重傷を負い、野戦病院に担ぎ込まれますが、まもなく28日に息をひきとります。

乃木将軍の出発と僅かに1日違いでした。

3. 御下賜金

日露戦争が終わって、軍司令官たちは御下賜金(ごかしきん)があった。相当な額です。

乃木も、その包みを仏前に供えました。何日かたって、何気なく静子夫人が、その包みを開けてみると、中には一銭も入っていませんでした。しかし、夫人はその金額も、使途も尋ねません。夫を信じていたのでした。

そのうちに、夫人は、乃木が御下賜金の全てを使って、旅順攻略のときの部下に、記念品を買ってやったということがわかりました。ある夜、乃木に夫人が言いました。

御下賜金の話、ようございました。

そう思ってくれるか

4. 明治の美人、末弘ヒロ子

末弘ヒロ子

写真は、1908年(明治41年)に日本初の美人コンテストで見事1位に輝いた末弘ヒロ子さん(当時16歳)です。

主宰はアメリカの新聞社「シカゴ・トリビューン」で、その依頼を受けて日本の「時事新報社」が令嬢を対象に美人写真大募集を行いました。厳しい審査の結果、日本一の美人に選ばれたにもかかわらず、彼女には不幸がおとずれます。

彼女は当時女子学習院中等科に在籍していました。学習院といえば風紀を重んじる校風。ましてや当時学習院院長であったのが、これまた軍紀に厳しかった乃木希典であるからなおさらのこと。 乃木はこの結果に「けしからん!」と猛反対します。そして、乃木院長はヒロ子に退学を命じます。

当時の新聞記事に掲載された学校側の意見は、

女は虚栄心の盛んなるもの、いわんや女学部生徒のごとき上流の家庭に育ちしものにありては、本人が虚栄心に駆られて自ら応募せしならば、他の生徒等の取り締まりの上、停学もしくは論旨退学の処分をなさんと目下しきりに協議中にて、 (中略)なおヒロ子他これに応募したる同校生徒をもそれぞれ取り調べの上、処分するはずなりと。

「大坂毎日新聞」(明治41年3月22日)の記事より

実は写真を応募したのはヒロ子の義兄が勝手に送ったものであったものでした。
(その際に、住所年齢一切不明にし、名前も「末広トメ子」という偽名で応募しています。)
しかし、親や新聞などの抗議もむなしく、ヒロ子は結局自主退学させられてしまいます。

その代わりに、乃木院長はヒロ子に結婚相手を探してあげます。相手は野津道貫の息子野津鎮之助でした。そして自ら仲人になったといいます。野津家といえば伯爵家(後に侯爵)。
末広ヒロ子は乃木のはからいにより、伯爵夫人という幸せをつかんだのでした。

めでたしめでたし。

5. 乃木将軍の癖と嫌いなもの

乃木さんは何か面白いことがあると、必ず右手を頭にあてて哄笑される癖があった。
手拭は模様のあるものを使われなかった。白の晒木綿を手拭の長さに切っておられた。
乃木さんは口笛が大嫌いであった。書生などが口笛を吹くと、叱り飛ばされたものである。
時計の鎖を胸に吊るしたり、鉛筆万年筆をポケットからのぞかせているのは嫌いであった。
相撲はスキばかり狙っていて、コセコセするからというので嫌いなものの一つであった。

撃剣などで汗の出がひどい時は日本紙の反古紙を腹や胸に押し込んだものである。
「日本紙は重宝なもので汗を吸うから風邪を引かない」といっておられた。
風邪を引いて、頭痛のする時は白い布で頭をグルグル巻く癖があった。

それに風呂が大嫌い。海水浴をしても清水で体を洗ったりしなかった。
それがためボツボツが体に出来た時もあった。風呂には滅多に入らなかった。
毎日風呂に入る人の話を聞いて「えらいものだなあ」と云はれたことがあった。
乃木さんは1ヶ月に12回しか入浴されなかった。それに、十分に洗いもしなかった。
手や足をふいて置けばいいという流儀であったことは、秋山好古大将に似たところがあった。

乃木さんは使わんでもなかったが、大ていはお金を状袋へ入れたまま、ポケットに入れておられた。神社へ参詣の時、銀貨を砂でゴシゴシこすり、水でよく洗い紙に包んで神前に供えたものである。洋行の時、ぬれ手拭入れを買はれたが、乃木さんは「これは立派だ、財布にいい」といって金を入れておられた。

桜井忠温著『将軍乃木』より

6. 乃木さんは偉い人

子供のころ遊んだ「だるまさんがころんだ」。

「だるまさんがころんだ」とオニは十を数えるわけだが、ある地域ではこれを「のぎさんはえらいひと」と数えるらしい。

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