稀世の英雄・児玉源太郎の人物評
川上操六、桂太郎とともに「明治陸軍の三傑」と呼ばれる児玉源太郎の人物像及び人物評をご紹介いたします。
目次
1. 児玉源太郎とは
1852年(嘉永5年)2月25日、周防国徳山藩士の子として生れる。父代わりの義兄が藩内旧主派に暗殺され一時児玉家は廃絶されるが、正義派が優勢となり源太郎は家長に再興する。
明治維新
初陣は1868年(明治元年)の東征となる。維新後は佐賀の乱に大尉で出動、戦傷をうけるが、神風連の乱では熊本鎮台准参謀としてその手腕を見せる。
西南戦争
熊本鎮台幕僚参謀長の時、西南戦争が起き、参謀長格で熊本籠城を指揮、西郷軍を撃退した。一躍その才能を知られ頭角をあらわすことになる。
日清戦争
陸軍大学校の充実に力を注ぎ、ドイツからメッケル少佐を招聘し国軍の将校教育に多大な貢献をした。 1892年(明治25年)陸軍次官兼陸軍省軍務局長となり、日清戦争では大山巌大将が第二軍司令官として出征したため、事実上の陸相として出征軍を支えた。
台湾統治
1898年(明治31年)には台湾総督となり後藤新平を民政長官に登用し、台湾の安定化に寄与した。さらに陸相・内相・文相を兼任。児玉は知将として名高く、天性の「機敏と胆力、的確ですばやい判断力と指導力」は、実践の現場で常に発揮されたものであったから、彼は薩長のバックなしで栄達できた数少ない人物であった。
日露戦争
日本とロシアの関係が悪化してきた日露戦争開戦直前の1903年(明治36年)、「今信玄」と呼ばれた参謀次長田村怡与造少将が急死する。参謀本部の大黒柱がなくなるという椿事の中、児玉は大臣の栄職を去って、実質的には格下の職種であった参謀本部次長に自ら志願して就任、対露作戦計画を練り上げた。
日露戦争が開戦し満州軍総司令部が創設されると、満州軍総参謀長に就任し大山巌軍司令官を補佐する。戦費調達で財閥の大物・渋沢栄一を説得し、対立する薩摩閥の海軍、長州閥の陸軍をまとめあげ、 日露戦争を実質的に指揮した源太郎は、明治日本が直面した危機を卓越した戦略眼で乗り越えた名将であった。
メッケル少佐は、ドイツの新聞記者が日露戦争の勝敗予想を質問したとき、
「日本にはゲネラル(将軍)・コダマがいる限り掛念がない。必ずやゲネラル・コダマは露軍を破って勝利を勝ちえるであろう」
と、力強く語っていたと云う。
大国ロシアと戦うための資金・人材・作戦を分析管理し、海底ケーブル敷設と無線による情報網を整備して勝利に導き、また、戦後の講和にむけても冷静な判断を下した源太郎の手腕は卓越したものであった。
日露戦争後
1904年(明治37年)陸軍大将。1906年(明治39年)参謀総長・南満州鉄道創立委員長。情報の重要性に着目し次長に福島安正少将を起用し陸軍の再整備に着手した矢先、急逝する。(享年55)
常に警句を連発しては呵々大笑、決して憂色を見せなかった。
2. 「理想の天分に恵まれている」メッケル少佐談
日本陸軍のドイツ・モデル採用決定にともない、ドイツより招聘し、参謀本部顧問・陸軍大学校教官として教育や建築、戦術指導を行い、創設期陸軍に多大な影響を与えたメッケルに、ある人が極めて率直に、「我が陸軍に於ける英才は誰なりや」 と質すと、彼は少しも躊躇せず、
「児玉源太郎と小川又次であろう。この両大佐のみは、作戦計画の真意義を諒解しておるが、殊に児玉は非凡人であり、器局が大きく、進言を容れ、他人にも聴くので、その参謀たり、師団長たり、軍司令官として大兵を率いて過誤あらず、自由に動かす能力があり、理想的の天分に恵まれておる」
3. 「軍服を着た政治家」評論家鳥谷部春汀談
日清戦争において川上子爵の帷幄に参画せし事が戦捷の一大原動力たりしことはもちろん異論なしと雖も、もし児玉男爵の後方勤務の宜しきを得たるものなくば、百の川上ありと雖もいづくんぞ能く名誉ある戦捷を得んや。漢の高祖は蕭何の後方勤務を評して、張良の政略、韓信の戦功と優劣なしと論ぜり・・・・・・。
又軍備問題といえば特に川上子爵の手に成れりと想像する者あり。川上子爵もとより軍備計画者の一人なりと雖も、この計画を完成し、閣議を通過せしめ、議会を協賛せしめたる者は主として児玉を推さざるを得ず。
彼は軍服を着たる政治家にして、その長所は戦略に非ずして寧ろ政略に在り。彼の軍人部内に勢力あるは、軍人として卓越せる才能あるに非ずして軍人の最も短所とする行政的手腕を有するためなり
(日清戦争の功績を評して)
4. 「軍事行政家としては第一人である」大隈重信伯爵談
とにかく軍事行政家としては第一人であると思う。何年であったか、吾輩が内閣に居った時に、陸軍次官として度々閣議に列したが、軍人肌とは言うものの如何にも闊達で、常に洒洒落々、そしてあの様に複雑難事な陸軍の行政事務を一手に引受けて、快刀乱麻を断つが如く、一々処理し去って、些かの混雑さえも生じさせなかった眼識と技量と明晰なる頭脳とは実に驚く可きものを有して居た。
5. 「児玉の児玉たる所以」乃木希典大将談
児玉の策戦と云えば如何にも放胆で、且つ細心驚くばかりなので非常に其敵から恐れられたものでした。それで能く命令通りに少しの間違いもなく軍隊を操縦した点など児玉の児玉たる所以でしょう。
ある時、小金で対抗演習があった。その時児玉と古谷の連隊でしたが、ある夜真っ暗な中を少しの乱雑も生じさせずに軍をまとめて背進運動をした如きは今日に至るまで好話柄となっております。
6. 「佐命の功臣」東京朝日新聞追悼記
疑いもなくこの人は佐命の功臣(天子の創業を扶けた功臣)の一人なり。再昨年(明治36年)の秋、参謀次長の田村中将逝去の後、この人が内務大臣より一転下し、フロックコートを脱いで再び軍服をつけ、急に参謀本部に入れる時は、わが国民100人中99人までは皆露国との戦争の到底避くべからざることを内々に覚悟しおりたる際なりしが、相語って曰く、よくも就きたり、又よくも就かしめたりと。蓋しこの人の果決、精毅が国民の信頼を得ありしによる
7. 「今藤吉郎」
明治期の陸軍軍人で、田村怡与造は「今信玄」、小川双次は「今兼信」の異名で呼ばれていました。その中で、「今藤吉郎」と呼ばれたのが児玉源太郎でした。
秀吉と同じくらい背が低くて、大声の持ち主であったからというのもありますが、台湾総督として治世に辛抱した6年は、毛利氏と対陣する秀吉に比するところあり、何よりも、何でも自ら引き受け、いかなる難局をも辞さなかったところは木下藤吉郎そのものでした。日露戦争後に急逝していなければ、さらに出世して、間違いなく「今太閤」となっていたでしょうに。悔やまれます。
なお、戦後に田中角栄氏が、この「今太閤」の異名を手にしています。