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山本権兵衛の逸話4選|性格・人物像がわかるエピソード集

  • 公開日:2022/07/06
  • 最終更新日:2026/04/08
山本権兵衛

山本権兵衛とはどんな人物か

山本権兵衛は、日本海軍の基礎を築いた人物として知られています。
日露戦争期には海軍大臣として組織の中心を担い、日本の勝利を支えました。

しかし、その本当の魅力は「人間としての強さ」にあります。

本記事では、彼の性格や信念がよくわかる逸話を4つ厳選して紹介します。

この記事でわかること

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  • 山本権兵衛の性格
  • 若い頃のエピソード
  • 海軍を志した背景
  • リーダーとしての特徴

逸話①: 父の厳格な教育

山本権兵衛の人格形成に大きな影響を与えたのが、父の厳しい教育でした。

幼少期から甘えを許されず、精神力を鍛えられる環境に置かれていたといわれています。
その教育は非常に厳しく、ときに過酷ともいえるものでした。

しかし、この経験が後の山本にとって大きな財産となります。

父・五百助の厳しい訓育

山本権兵衛の父五百助盛珉は書画を能くして歌道に通じ、武芸でも特に槍術などは藩の中でも指折りの達人であった。そして、藩の右筆となって出仕、長い間藩主の書道指南を兼ね勤めた人である。

その父の躾はなかなか厳しかったらしく、権兵衛の異母姉平田ゆき子の話によると、南国にはめずらしい雪の降った朝のこと、庭で槍術の稽古をしていた権兵衛は、まだ子供であり、寒さのあまり、かじかんだ手にホウホウと息をかけていたところ、父五百助が大いに怒り、裸足で庭に飛び降りるなり、

武士がそんなことで役に立つか!

と権兵衛を雪中にねじ伏せて戒めたという。五百助の厳格なことは、権兵衛に対してだけでなく、ゆき子など女の子たちも、寒中毎晩井戸水を石鉢に汲み入れ、翌朝朝、この氷のような水で縁や棚を拭かされたそうである。

その反面、負けず嫌いで口が達者な権兵衛が、友達と喧嘩したりすると、五百助は習字本を書いてその友達に与え、仲直りをさせるというような、細かく気を配るところもあった。

五百助は、権兵衛の幼児、その前途に非常な関心をよせ、同母姉常子の話によると、

権兵衛はよく行けば立派な人間になるが、一歩を誤ればどんな人間になるかわからん

と、家人に述懐したことがあるという。

▶ この逸話からわかること

山本権兵衛は「精神力を何より重視する人物」であり、困難に耐え抜く強さを幼少期から身につけていたことがわかります。

逸話②:海軍を志した理由

山本は若い頃から強い志を持っていました。

当時の日本はまだ近代国家として発展途上であり、特に海軍力の強化は急務とされていました。

その中で山本は「国を守るためには海軍が必要だ」と考え、自ら海軍の道を選びます。

年齢をごまかして従軍

権兵衛は12歳の時、薩摩藩とイギリス艦隊との戦いで、砲弾運搬などの雑役に加わったことがあった。

権兵衛が数え年で16歳の少年になった時、王政復古のため薩摩藩が藩兵を募集をした。長兄は御小姓を勤めていたので、国許に残ることになったが、次兄で22歳の吉蔵が従軍するというので、戦争に行きたくてたまらない権兵衛は、さっそく役所に出かけて、従軍したいと志望を述べた。

上役の人から、おまえ何歳かと尋ねられた彼は、18歳以上でないと従軍させられないことを知っていたので、とっさに

18歳です。

と答えた。そのころは簡単なもので、べつに戸籍を調べるというようなこともない。体格が大きかったので疑われなかったのか、すぐに採用と決まった。

▶ この逸話からわかること

単なる出世志向ではなく、「国家のために何をすべきか」を基準に進路を決める人物であったことがわかります。

逸話③: 海軍を志し、勝海舟を訪ねる

山本権兵衛は、机上の理論だけでなく、実際の行動を重視する人物でした。

問題があれば現場に足を運び、自ら確認し、必要であれば即座に決断を下します。

その姿勢は部下からの信頼を集め、強い組織を作る原動力となりました。

海軍を志し、勝海舟を訪ねる

勝海舟

戊辰戦争後、薩摩藩では軍制を整頓、四大隊で常備兵を編制し、軍務官を立てて総裁その他の士官を任命した。そして、この兵隊中から50名を選んで遊学生とし、東京、京都その他の要地に分遣させたが、権兵衛はこの選に入り、東京に遊学することになった。ときに1869年(明治2年)3月、18歳であった。

東京に出た彼は、昌平黌に入り勉強していたが、たまたま西郷隆盛が薩摩藩兵を率いて函館の役に赴くのを見て志願、従軍した。もっとも函館到着の前日5月18日、すでに同地方は鎮定されてしまったので、ただちに帰京、ふたたび昌平黌に学び、まもなく開成所に転学した。

東京遊学にあたり、西郷南州はとくに勝海舟に宛てた紹介状を書いてくれたので、上京するとすぐ、勝邸を訪れてた。勝海舟といえば、大西郷と江戸開城の大談判をやった人であるから、見るからに大英雄大豪傑の風貌だろうとおもっていたところ、実にやさしい人であった、18歳の彼を、子供の面倒を見るように親切に取り扱ってくれたという。

西郷隆盛は、権兵衛に将来海軍に入って国家に尽すことを勧め、権兵衛自信もその志をもっていた。西郷が権兵衛を海舟に紹介したのも、その糸口を得させるためであった。ところが、さて海舟に会って志を告げ、ご指導を願いたいと申し出ると、海舟は首をたてにふらない。朝の9時頃から午後の4時頃までいて粘ったが、海軍のことは技術的なことが多くて難しいから止めた方がいい、と言って、どうしても許しが出ない。翌日改めて出直し、嘆願を重ねた。また一日かかたったが、やはり許しは出ない。そこでまた三日目にも出かけて、繰り返し懇願した。その根気には海舟も兜を脱いだ。そう熱心にやる考えならばやれ、とはじめてお許しがあった。善はいそげで、彼はその日から先生の食客になった。

「皇漢学も大切だが、これからは洋学の知識がなければ、本当の海軍学術を身につけることはできない。その為には、まず高等普通学、数学などを修めて、素養を作らなければならない。そうしてから海軍に入り、勉強すれば、きっと海軍に通暁することができよう」

と、この教えに従って、彼は昌平黌に学び、或は開成所に入って勉強した。その後、ついに待望の海軍に入ったわけだが、その間、海舟からうけた有形無形の指導は実に大きいものがあった。海軍操練所に入ってからも、権兵衛は毎週一回、海舟のもとを訪れて教を受けた。

1899年(明治32年)、海舟が死去した時、山本権兵衛は海軍大臣であったので、とくに勅裁を仰いで現職の海軍大臣と同一の儀仗兵を出した。それから海舟の銅像を海軍省の正面に建設する計画を立て、海舟の娘婿たる目賀田男爵に相談したところ、「海舟は銅像がきらいだったようだから辞退したい」といわれたので、取止めた云う。

▶ この逸話からわかること

山本は「現場主義」を貫いたリーダーであり、行動によって組織を導くタイプの人物であったことがわかります。

逸話④:信念を曲げない姿勢

山本権兵衛は、自らの信念を決して曲げない人物でもありました。

周囲の反対や困難な状況に直面しても、自分が正しいと信じた道を貫き通します。

その強い信念こそが、日本海軍の発展を支える大きな力となりました。

西郷(従道)海相に苦言を呈す

山本権兵衛は世界三大海軍建設の父といわれるほど、日本海軍の建設に力あった人だが、一方ではまた辣腕家でもあった。

山本が海軍少佐になったとき、海相に就任したのは、陸軍中将の西郷従道である。当時はこういうこともあった。 西郷が海軍の概況書提出を山本に命じると、彼は苦心して書き上げて提出したが、一週間で返ってきた。山本は海相にむかって、

閣下、閣下は陸軍では将軍ですが、海軍では新参者ではありませんか。山本は海軍に生まれ、海軍に育ったものです。たとえ少佐でも海軍では私のほうが、大臣より古参です。その私が七ヶ月かかって調べたことが、一週間でもうよろしい、わかったとは何事ですか!

西郷海相は、ナルホドと調査書をもう一度読み返したという。

▶ この逸話からわかること

山本は「信念を持って決断し、それを貫く」人物であり、組織の方向性を示す指導者としての資質を備えていたことがわかります。

まとめ

山本権兵衛は、

  • 厳しい教育で鍛えられた精神力
  • 国家を思う強い志
  • 現場を重視する行動力
  • 信念を貫く強さ

を兼ね備えた人物でした。

これらの資質が、日本海軍の発展を支え、ひいては日露戦争における勝利へとつながっていきます。

彼の逸話を通して見えてくるのは、単なる軍人ではなく「信念を持ったリーダー」としての姿です。

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