秋山兄弟の母、秋山貞(山口貞)
秋山貞(山口貞)
1827年(文政10年)、松山藩士山口正貞の二女として生まれる。
25歳の時に、貞は、
「親のいいつけだったらどこへでも行きますし、若い時の苦労はどんな苦労でも構いませんが、どうか老後だけは安楽に暮らしたいと思っています。」
と云い、秋山平五郎久敬に嫁ぐ。
小柄ではあったが健やか、聡明であり柔順であり、姑が「お貞さん、もうおやすみ」というまでは、起きて裁縫をしたり、糸車を廻していた。
しかし、一方ではとても気丈であり、秋山真之が幼少の頃にいたずらをし、警官に検挙された時、
「私も死にます。おまえもこれで胸を突いてお死に。」
と短刀をつきつけて真之を叱った。
また、真之が連合艦隊参謀として出征する際には、
「若し後顧の憂いがあり、家族のために、出征軍人としての覚悟が鈍るような恐れがあるならば、 私にも充分の覚悟があります。」
と決別を兼ねた内容の手紙を送っている。
秋山好古が満州駐屯軍司令官時代、福島安正将軍が北満から帰って貞を挨拶旁訪ねる。その時、福島将軍は、
「秋山さん御兄弟は、お二人ともどうして揃いも揃ってあんなに偉い方になられたのでしょう。 たぶんあなた方の御教育の力に依る事と思われますが、どういう御教育をなさったのですか。」
と質問した。 ちょっと返答に困るような質問であったが、
「私のような昔気質の人間ですから、ただ普通の事をしただけで、 何も変った教育などはいたしませんでした。」
貞は事もなげに答えた。
1905年(明治38年)6月、千葉県習志野の秋山好古邸で逝去。(享年79)
秋山貞、幼少期のエピソード
貞が8歳くらいの時に玉太郎という幼い弟を背負って付近の福正寺川という川辺へ行った。松山の川には「まいまい」といって水の上をクルクル廻っている可愛い黒い小さな虫がたくさんいた。貞は見ているばかりでは物足りなくなって水面に手を延ばして「まいまい」を取ろうとした。その弾みに背負っていた子がスッポリ背から抜け出て川中に落ち込んだ。
貞は「まいまい」どころではなかった。 あいにくと梅雨のころで、水かさは増していたし、どうにも手の下しようがなかった。 それでも、「どうかして弟を救はねばならない」そうした一心から夢中になって水中へ手を伸ばして引揚げようとした。 折りよくそこへ農夫がきかかって、難なく弟は救いあげられた。貞はうれしなきに泣いた。