明治日本一の美人、末弘ヒロ子
日本で最初に美人コンテストが行われたのは、明治半ばのことです。といっても、出場者を舞台の上に集め、審査を行うというようなものではなく、写真による審査が一般的でした。
目次
1. 日本の美人コンテストの起源
1891年(明治24年)、東京浅草の凌雲閣(12階)で行われた「百美人」の催しが、日本初の美人コンテストと記録されています。100人の芸者の写真を4階から7階にかけて展示し、見学者による投票で順位を決めるというものでしたが、審査対象は芸者に限られており、一般人の自由参加を旨とする現代の美人コンテストとはいささか趣の異なるものでした。
2. 一般公募による美人コンテスト
一般公募による美人コンテストの最初は、1908年(明治41年)に時事新報社が実施したものになります。これはアメリカの『シカゴ・トリビューン』紙の呼びかけに応える形で行われたもので、美人の日本代表を決めるという意味合いを帯びた試みでもありました。
興味深いのは、この時事新報社が主宰した美人コンテストの審査員として、彫刻家の高村光雲、医学者の三島通良らと並んで、人類学者の坪井正五郎の名前があることです。明治の美人コンテストは、「日本人種」の美の標準を科学的に確定するという、人類学的な関心とも結びついていたようです。
3. 美人写真、第二次審査(最終審査)の結果
以下、得点の最も多かった順に、
4等 | 尾鹿貞子(23) | 三重県飯坂町 |
5等 | 武内操子(17) | 東京市麹町区 |
6等 | 森田ヨシ子(22) | 茨城県水戸市 |
7等 | 鵜野ツユ子(19) | 東京市日本橋区 |
8等 | 鷲見久枝子(22) | 東京市京橋区 |
9等 | 中尾順子(21) | 東京市麻布区 |
10等 | 池田政子(21) | 東京市麹町区 |
11等 | 内藤ヨシ子(20) | 東京市麹町区 |
12等 | 伊藤シゲ子(23) | 宮城県仙台 |
4. 当時の新聞記事の内容
1908年(明治41年)3月5日付けの時事新報の記事を抜粋します。
日本第一美人、末弘ヒロ子嬢
世界美人競争の候補者を出さんが為め本社が主催して募集せる日本全国美人写真に対する審査の結果はいよいよ別項に発表したり。即ち本社が挑戦者たる「シカゴトリビューン」社に送りて世界の競争に加はらしめんんとする日本一の美人は福岡県小倉市長末弘直方氏の令嬢ヒロ子と確定する。
本社はかねて定め置きたる賞品を、とりあえず同嬢に授与する為めに、日本社を代表せる記者を派遣して、嬢を東京なる寓所のその親戚の家に訪ねる。「こちらへ」と導かるるままに記者は洋館応接の間に打通れば、壁には4、5人の人物、風景、静物の写真額を掲げ、卓上には懸崕の松、室咲の草花など、主人の好みと見えて按排好く置かれてあり、ストーブには今を熾りと燃え立てる石炭の焔、ゴーゴーと音立てて空気を吸込む勢い凄まじく温気先づ顔を打ちて心地好きこと限りなし。待つ間程なく入り来れるは、他ならぬヒロ子の義兄、即ち当家の主人なり。
「ようこそ」 、「はじめまして」の挨拶一通り済みて後、記者は言葉を改めて、
「今日お邪魔したのは余の儀でもありません。かねて時事新報社で募集いたしました美人の写真につきまして」
と、第一次審査及び第二次審査の結果、目出度くも末弘ヒロ子が全国第一等の美人に当選したる次第を告げて、今日はその喜びを表する為め、いささか記念として、かねて時事新報社の提供したる賞品を呈したしと述べたるに主人の顔は忽ち驚きと喜びを以て満されつつ、
「ヘエ、全国一等に、これは意外です。事実でしょうか。妹が聞きましたらさぞ驚くことでしょう、イヤ吃驚しましょう。それにしてもわざわざの御来訪は恐れ入りました。お呼び下されば当方から差上るところでしたのに、実は先程貴方からの電話で私に宅に居てくれ、またヒロ子も外出を見合せてくだされとのお報せがありましたので、或は先に差出して置いた写真の事ではあるまいか、新聞に依ると審査も済んだとの事であるから、或はヒロ子が三人の中に這入ってでも居るのではあるまいか、イヤイヤそんな筈がない。ハテ何んの御用かしらんと種々想像していたところでした。一等などとはそれはマア存じも寄らぬ、事実でしょうか」
と繰返せり。
賞品はダイヤモンドの指輪
社員は重ねて、
「何は扨て置き実に目出度いことです、誠に軽少な品ではありますが、ただほんの記念として御納めを願いたい。実は授与式と云う様なものでも挙げようかとも存じたのですが、本社の精神は決して名聞の為めではない。全く国際的事業として、極めて真摯に極めて誠実にこれを遂行するに在るのですから、授与式などという晴れがましい儀式ばった事は、殊更にこれを避けたかったものですから悪しからず思召して下さい。それで今日、私は社を代表してお喜び申上げ、且つこの品を御当人にお手渡ししたいと存じて、それで罷り出た次第です。」
と云いたるに、主人は深くその意を諒して、
「さにあらば、ちょっと呼んで参ります」
と挨拶し、ヒロ子を伴い来るべく、この室を出去れり。ストーブの火はさながらに駘蕩四月の気を室に湛えて記者の頬は稍や炎りぬ。最前下婢の侑めたる一碗の茶に咽喉の渇きを癒しつつ、嗚呼日本一の美人、写真にしてなおあれ程なり。その瞳は輝きその唇は動きて優しき表情の之に添はん時、その美は更に幾段の貴さを加うべきぞ。
嗚呼日本一の美人、或はやがて世界一の美人たらんとするその美人は今わが眼の前に現はれんとしつつあるなり。平生多少は世事に慣れたりと自覚せる記者も斯く想い来れる時、忽ち一種の怯れを感じ吾れながら指頭の打割うを禁じ得ざりしは何故ぞ既にして室外微かに衣摺れの音の起ちたるに居ずまいを正して待つ程もなく、真先に主人、次に夫人、夫人の後ろに附き随いつつ、面はゆげの俯目となりていと淑かに入り来れるぞ写真の主のヒロ子なりける。主人は先づ夫人を記者に紹介し、次に、
「これがヒロ子です」
と紹介す。記者は恭しく立って、
「お初にお目にかかります」
と挨拶する中にも、心中窃かに喜悦の情に堪えざるものあり。
今にして敢て自白す。記者の指頭の顫へるは自から崇高の気の来り撃つを感ずると共に又た幾分かは写真の主が果して写真の如くなるべきかを疑へるなりきそは写真を以て人を取る場合に免かれ難き懸念なればなり。然るに今写真はその儘に脱け出でてその坐作進退は更に予想よりも幾段の美を加え本社の計画の全く成功せることを証したり。此時の記者の喜びはその如何ばかりなりしとするぞ 「日本一の美人」の聲は胸底深き処に叫ばれて敬虔の念、欣幸の情は泉と湛え雲と湧きたり。
これに於て記者は更めてヒロ子に向い審査の結果貴嬢が全国一等に当選したるに就ては紀念として軽少ながら賞品を贈りたしと告げ予て用意せる目録及び賞品を授けたるにヒロ子は「マア」と一声叫びたるのみ。夫人は傍らより語を添えて、
「誠に思いも寄りませんでした。御覧の通りの不束者が美人などとは御恥かしい次第でございますが、折角の御好意でございますから御受けを致させますでございます。」
と挨拶し、さらにヒロ子に向って、
「ヒロ子さん、御前はいかがします。」
と、深く令妹の誉れを喜び、次で主人は左記の目録を朗読し三人代る代る礼を述べたる後主人は写真を提出したる当初の模様を物語りぬ。
「末広トメ子」という名で応募
昨年の10月でした御社で美人の写真を募集されるという事を承知しまして、つい有り合せた義妹の写真を私からお送り申しました。しかし、別に競争するの何のと云う考えは少しも無かったので、全く私の物好きから、本人のヒロ子には勿論、妻にも無断で出したのです。それ故、本人の名前も末弘を末広、ヒロ子をトメ子として住所年齢などは一切記しませんでしたが送ってしまった後で、本人の承諾を得ないのが何となく気に掛かってならないから、実はこうこうだと申しましたところが、ヒロ子は大変に困った模様で、
「そんな事をしては嫌です。ぜひ早く取り戻して下さい。」
と、泣いて騒ぐのです。
私も一時は当惑はしましたが、
「さて出したものを今さら取り戻すというても返しては下さるまい。もし新聞に出すような事があったら、その時は匿名にするようにと写真の包紙に書いて置いたから、決して名前の出る気遣いはない。名前さえ出なければ人にもこれがお前だと判るはずがない」
と、慰めていたのです。ところが、その匿名云々の断り書は、全く私が悪かったので、写真の裏に直接に書いて置けば宜しかったものを、包紙にちょっと書いたばかりでしたから、御社にも手違いがあったものと見え、写真と共に名前も出てしまいました。
するとヒロ子の参って居る学校で友達から、
「今日の時事新報にアナタの写真が出ていますよ」
と云われたので、ヒロ子は大層驚いて
「イイエ、私ではありません」
と云い、紛らしていたところが、その翌日友達はわざわざ「時事新報」を切り抜いたのを持って来て、
「これでもアナタじゃなくって」
と、手詰めの談判にあったようです。
「イイエ、私ではありません。第一、名前が違うじゃありませんか」
と、その時もようよう云い抜けはしたそうですが、何となく恥かしかったと見え、帰宅後、
「明日からは最う学校へは行かぬ」
などと申した事もありますので、私は、
「そんな馬鹿な事を云うものでは無い」
と叱った事もあります。
ところが、先程もあなたから電話がありましたから、ヒロ子にもちょっと話しましたところが、
「それはたいへん。もし万が一、3等にでも這入ろうものなら、また学校がうるさいから、どうかしてそんな事のない様にしてもらいたい」
と、再三私に迫っておったのです。
末弘ヒロ子のプロフィール
ヒロ子は明治26年5月父直方が警視庁第一部長を勤めて居ります時分、麹町区八番町の警視庁第二号官舎で生れましたので、七人の兄弟でございます。総領はナオ子と申して司法省の技師を勤めて居る山下源次郎に嫁ぎ、次のイク子は公使書記官安部守太郎の妻となって只今は清国の北京におります。テイ子、直士、忠雄、ヒロ子、トメ子と云う順序で、直士は青山学院に、忠雄は正○中学校に、トメ子は父母の許に居り、ヒロ子は目下、学習院の女子部中学部三年生でございます。
父が度々任地を変えたものですから、その都度学校も変っておりますが、概略を申上げますと、明治32年には父が高知県知事から岩手県の知事に転任致しましたから、ヒロ子も岩手県に参って始めてその地の小学校に入学致しました。それから明治34年には東京へ出て赤坂○之丁尋常小学校に入り、間もなく父が香川県知事になりましたので、又たその地へ参り再び上京して麻布小学校に入り、夏に北海道函館に赴任した父と共に同地へ参って、高等小学校へ入学し、後上京して青山師範学校の○○○女学校へ入り、明治38年から学習院の女学部に入ったのでございます。
遊芸でございますが、父が鹿児島人で踊とか三味線とか申すものは大嫌いでございますから、ヒロ子も習った事はございません。音楽は、ただ今ピアノを稽古して居ります。お花は麻布の田上さんに習わせておりますが、流は池の坊で郭○園と申す号を貰い、それでも許し丈けは戴いております。お茶は、表千家でみれば未だ真の初歩でございます。
平生の食物の好みですが、女の事でございますから取立てて申す程の物もありませんが(と一寸ヒロ子の顔を見てやはりお薩でしょう。ホ、ホ、ホと笑う)、野菜物が好きでございます。肉類もお魚もあまり好みませんが、鰻は好きのようでございます(ホ、ホ、ホ)。お菓子も随分好きで甘いものには目がございません。果実の中でも柿、蜜柑などは大好物でございます。誠にモウ無口の方で、用でも無ければ滅多にお話も致しません。
着物の丈けでございますが、長襦袢は三尺三寸(125センチ)で履物は六寸五分(約20センチ)を着ます。姉妹の中では一番大きいのでございます。
ヒロ子の談話
「実兄などがときどき遊びに来ては私をからかうのです。私ほんとうに厭でございます。何んにも当らないようにって、かようにお義兄さまにお願い申してきましたのに、一等に当たったなんぞと、私困ります。かの写真は一等か存じませんが、私は一等ではありません。」
この時、主人は夫人を顧みて、
「とにかく指輪を拝見させて御覧」
といいつつ、包よりサックを取出し蓋押披きて、
「イヤ見事な品だ、御覧」
と夫人に示せば、ヒロ子も頭差延べて、
「マア大きなダイヤモンド!」
と鈴張りたらんが如き目を輝かしぬ。
「一つ嵌めて御覧になってはいかがです」
と記者の促がすままに、指輪はやがてヒロ子が右のくすり指に嵌められて赫灼の光四莚を払いぬ。
日本一の美人の誉れと共に頓ては世界に輝き渡るたるべし。
5. 美人コンテストの思わぬ余波
彼女は当時女子学習院中等科に在籍していたのでした。学習院といえば風紀を重んじる校風。
ましてや当時学習院院長であったのが、これまた軍紀に厳しかった乃木希典であるからなおさらのこと。乃木はこの結果に
「けしからん!」
と猛反対します。
そして、乃木院長はヒロ子に退学を命じます。
当時の新聞記事に掲載された学校側の意見は、
女は虚栄心の盛んなるもの、いわんや女学部生徒のごとき上流の家庭に育ちしものにありては、本人が虚栄心に駆られて自ら応募せしならば、他の生徒等の取り締まりの上、停学もしくは論旨退学の処分をなさんと目下しきりに協議中にて、 (中略) なおヒロ子他これに応募したる同校生徒をもそれぞれ取り調べの上、処分するはずなりと。
「大坂毎日新聞」(明治41年3月22日)の記事より
写真を応募したのは義兄でしたが、親や新聞などの抗議もむなしく、ヒロ子は結局退学させられてしまいます。
6. シンデレラストーリー
その代わりに、乃木院長はヒロ子に結婚相手を探してあげます。
お相手は野津道貫の息子、野津鎮之助でした。
そして自ら仲人になったといいます。
野津家といえば侯爵家。ヒロ子は乃木院長のはからいにより、侯爵夫人という思いもよらぬ幸せをつかんだのでした。
侯爵とは
1884年(明治17年)の「華族令」で定められた、公爵に次ぐ二番目の爵位。叙爵基準は旧清華家、徳川旧御三家、旧大藩知事すなわち現米15万石以上、旧琉球藩主、国家に勲功ある者で、貴族院の終身議員となる。勲功による叙爵には、井上馨・大隈重信・小村寿太郎・佐佐木高行・西郷従道・東郷平八郎・野津道貫らの例がある。
義父となる野津道貫元帥が重患に悩み最早薨去の期に迫って来たから、取り急いで成婚の式を挙げることになります。然るにこの儀式は厳父元帥が病気中であるので、頗る略式で僅かに30分で終えます。
その珍しい略式の有様を記すと、この日、新郎鎮之助は陸軍中尉の正服で着席し、花嫁ヒロ子は髪を高島田に結い、花紅葉流れ扇の裾模様の入った紫紺色の振袖に笆に菊模様の金茶色の帯を締めて淑やかに聟君と対座し、媒酌の川村大将夫妻を始め親戚一同列席の上で、四海浪静かに目出度く三三九度の祝杯を挙げた。
その後、新郎新婦は高島中将に伴われて、病室の父君野津元帥に挨拶に行ったが、元帥もこの日は目出度い祝日の事であるから、努めて病床を放れ羽織袴の正装で椅子にもたれていた。新郎新婦に対しては容を改め、
「人道を重んじて、夫婦相和し君に忠に親に孝を尽くし、野津家の家名を汚すことのない様に致せ」
と訓しめたので、鎮之助氏も「誓って御言葉を守ります」と厳然として答え、静かにこの場を出て、それから故大野津(道貫の兄鎮雄)の未亡人クニ子の邸に赴いて、祖先の霊前に報告した。これがその結婚式である。
7. 余話
それから12日目に、野津元帥は病勢大いに革まり、遂に黄泉の客となったが、その間新婦ヒロ子夫人の厳父に仕えた様は実に美しいもので、いよいよ元帥臨終の時には連日の看護に髪はひどく乱れ、いといと哀愁の情に襲はれていた。
元帥の吐啖、眼滓などの拭き取りを始め、些細の点までに注意して世話し、時々元帥の口中が乾燥するのを見ては、
「ヒロで御座いますが、お水を差し上げましょう」
と優しい声で呼びながら口に進めるなど、実の子も及ばぬ程かいがいしく使えたので、野津元帥も我が家の将来に向って限りなく安心し、恰も眠るが如くに薨去したと云うことである。