乃木希典の人となりが表れる逸話6選

乃木希典は、日露戦争を指揮した名将として知られる一方、その私生活や振る舞いには、強い信念と独特の価値観が色濃く表れていました。
若き日の放埓な一面から、軍人としての徹底した自己規律、そして家族や部下への深い思いまで――。
本記事では、そんな乃木希典の人物像がよくわかる逸話を6つ厳選してご紹介します。
軍服で押し通す生活
乃木希典は若い頃、新婚の初夜に妻・静子を残して酒席に出かけてしまうほど、荒っぽい生活を送っていました。
しかし、1888年(明治21年)、ドイツ留学から帰国すると、その生活は一変します。
近衛歩兵第二旅団長となってからは、
起きてから寝るまで軍服を着用し、私服はほとんど持たないという徹底ぶりでした。
食事も質素を極め、冷飯とカボチャが常で、来客には質素な「七色汁」をふるまいます。
さらに特徴的なのは、軍服を着ている者を上座に据え、それ以外は官職に関係なく末座に置いたという点です。
この徹底した軍人精神の背景には、西南戦争で軍旗を失ったという痛恨の経験がありました。
その屈辱を胸に、乃木は「軍人として生きる」ことに人生を捧げたのです。
日露戦争出陣と遺言

(写真向って左が兄勝典、右が弟保典)
1905年(明治38年)5月26日、日露戦争出征を目前に控えた乃木は、自宅で送別の宴を開きます。
その日の日記には、淡々とこう記されています。
本日、皇太子殿下より拝領の清酒は、午時司令部に分配。自宅にて鮨を作り、親族を招く。中尾氏勝武士(鰹節)一袋持参、葬式のこと遺言。夜十一時廟を拝す
と、簡潔な文面にて記しています。
宴の最中、乃木は妻に静かに語りかけます。
さて、勝典、保典、及び自分の三人とも戦場へ向った以上、生きて還る事は先づあるまい。三人のうち誰が真先に討死をしても、戦争が終るまでは葬いをしてくれるな。何れ三人の遺骨が揃った処で、親子三人一緒に柩を出してくれ。よいか
これに対し、妻・静子はただ一言、
はい、仰せを守ります
と答えました。
この冷静さと覚悟に、同席した人々は声を失ったといいます。
あたかもこの日は南山の激戦の日でした。
第一、第三、第四の三ヶ師団が、前夜来の猛雨と濃霧を冒して突撃また突撃、一方金州湾にある4隻の軍艦が、これに呼応して砲撃を加え、水陸両面から攻立てたので、さしもの堅塁も遂に潰滅、ロシア兵は82門の山砲を棄てて辛くも旅順方面へ逸走した。
この時、日本軍の死傷者実に約4,300名。多くの死傷者の中に、乃木将軍の長男勝典がいました。敵弾のため重傷を負い、野戦病院に担ぎ込まれますが、まもなく28日に息をひきとります。
乃木の覚悟は、単なる言葉ではなかったのです。
御下賜金の行方
日露戦争後、司令官たちには天皇から「御下賜金」が下賜されました。
乃木もそれを受け取りますが、仏前に供えたままにしていました。
ある日、静子夫人が包みを開けると、中は空でした。
しかし夫人は、その理由を問いません。
後になって、乃木がその全額を旅順攻略で戦った部下たちへの記念品に充てていたことがわかります。
その話を聞いた夫人は、ただこう言いました。
御下賜金の話、ようございました。
そう思ってくれるか
このやり取りには、夫婦の信頼関係と、乃木の部下への深い思いがよく表れています。
末弘ヒロ子事件

1908年(明治41年)、日本初の美人コンテストで1位となったのが、末弘ヒロ子でした。
しかし当時、彼女は学習院の生徒であり、院長は乃木希典でした。
乃木はこの結果に強く反発し、「風紀を乱す」として問題視します。
結果としてヒロ子は退学に追い込まれてしまいました。
実際には、応募は本人の意思ではなく義兄によるものでしたが、処分は覆りませんでした。
ただし乃木は、その後ヒロ子の将来を案じ、結婚相手を世話します。
相手は華族・野津家の子息であり、乃木自身が仲人を務めました。
厳格さと同時に、責任を持って面倒を見る姿勢が見える逸話です。
乃木将軍の癖と生活
乃木には独特の生活習慣がありました。
乃木さんは何か面白いことがあると、必ず右手を頭にあてて哄笑される癖があった。
手拭は模様のあるものを使われなかった。白の晒木綿を手拭の長さに切っておられた。
乃木さんは口笛が大嫌いであった。書生などが口笛を吹くと、叱り飛ばされたものである。
時計の鎖を胸に吊るしたり、鉛筆万年筆をポケットからのぞかせているのは嫌いであった。
相撲はスキばかり狙っていて、コセコセするからというので嫌いなものの一つであった。撃剣などで汗の出がひどい時は日本紙の反古紙を腹や胸に押し込んだものである。
「日本紙は重宝なもので汗を吸うから風邪を引かない」といっておられた。
風邪を引いて、頭痛のする時は白い布で頭をグルグル巻く癖があった。それに風呂が大嫌い。海水浴をしても清水で体を洗ったりしなかった。
それがためボツボツが体に出来た時もあった。風呂には滅多に入らなかった。
毎日風呂に入る人の話を聞いて「えらいものだなあ」と云はれたことがあった。
乃木さんは1ヶ月に12回しか入浴されなかった。それに、十分に洗いもしなかった。
手や足をふいて置けばいいという流儀であったことは、秋山好古大将に似たところがあった。乃木さんは使わんでもなかったが、大ていはお金を状袋へ入れたまま、ポケットに入れておられた。神社へ参詣の時、銀貨を砂でゴシゴシこすり、水でよく洗い紙に包んで神前に供えたものである。洋行の時、ぬれ手拭入れを買はれたが、乃木さんは「これは立派だ、財布にいい」といって金を入れておられた。
桜井忠温著『将軍乃木』より
一見すると奇異にも思えるこれらの習慣は、無駄を排し、実用を重んじる軍人らしい合理性の表れでもありました。
「乃木さんは偉い人」
子どもの遊び「だるまさんがころんだ」。
地域によっては、この掛け声が「のぎさんはえらいひと」となっていることがあります。
これは、乃木希典が当時の日本社会において、いかに広く尊敬されていたかを示す象徴的な例です。
軍人としての功績だけでなく、その生き方そのものが、人々の記憶に深く刻まれていたことがわかります。
まとめ
乃木希典は、単なる軍人ではなく、強い信念と覚悟に生きた人物でした。
質素な生活、家族への厳しさと信頼、部下への思いやり――。
そのすべてが、彼の「生き方」を形作っています。
これらの逸話を通して見えてくるのは、勝敗や評価を超えた、一人の人間としての乃木希典の姿です。



