秋山真之と慶應義塾野球部と褌論
1907年(明治40年)10月31日、初めて布哇(ハワイ)のセントルイス野球団が来日し、早稲田、慶應野球部とそれぞれ対戦することになりました。 初の日米対抗野球試合 大正12年発行『野球歴史写真帖』より しかし、早稲田は […]
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1907年(明治40年)10月31日、初めて布哇(ハワイ)のセントルイス野球団が来日し、早稲田、慶應野球部とそれぞれ対戦することになりました。 初の日米対抗野球試合 大正12年発行『野球歴史写真帖』より しかし、早稲田は […]
1895年(明治28年)3月3日、正岡子規は日清戦争の従軍記者として東京を出発します。 子規の従軍が決定した。(中略)かれが東京を出発したのは、寒気が去った三月三日であった。その出発にあたって、内藤鳴雪は、 君行かば […]
秋山好古は戦時でも軍刀を用いず、平時佩用する模造刀身の指揮刀を携行しました。 そして、何よりも自決用のピストルをいつも首にぶら下げていました。 好古の本営は、廟であった。かれはテーブルの上にピストルと水筒をのせている。ピ […]
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有名な日本海海戦における東城鉦太郎作画の「三笠艦橋の図」です。 ただこの絵、ある点において史実通りに描けていません。 さてそれはどこでしょうか? 正解は、東郷平八郎(中央)の左後ろに構える秋山真之の恰好です。 小説『坂の […]
1898年(明治31年)7月13日、正岡子規は「正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹の里人・・・」という墓誌銘を、河東銓に宛てて書き送ります。 正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升又ノ名 […]
1905年(明治38年)6月19日、小説「坂の上の雲」の主人公である秋山兄弟の母・貞が、千葉県習志野の秋山好古邸で永眠しました。(享年79歳) この時、秋山兄弟は日露戦争に出征していましたが、弟の秋山真之は日本海海戦の後 […]
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1897年(明治30年)6月26日、明治海軍は日清戦争のため中断されていた留学制度を再開し、選抜した5人の海軍大尉を留学生として欧米諸国に派遣します。 この時選ばれたのが、イギリスに財部彪大尉、フランスに村上格一大尉、ド […]
1. 子規のはかない恋 1894年(明治24年)の夏、正岡子規が木曽路を経て美濃伏見から舟で木曽川を下り、北方で下船、木曽川停車場から汽車に乗るつもりで駅前の茶店で休憩をします。この時の思い出を、1899年(明治32年7 […]
1. 秋山好古の給料 下は秋山好古の給料の変遷です。 1871年(明治4年)に、新貨条例により今までの一両小判が一円金貨に変更になりました。当時の1円の価値は、秋山好古の大好きなお酒(一升瓶)が4銭でしたので、25本買え […]
1. 秋山真之の豆好き 秋山真之の好物は煎り豆。考え事をしている時には決まってポケットの中の煎り豆を取り出してはボリボリとかじっていたといいます。 実のところ豆に含まれるビタミンB群には、イライラなど神経の不安定や集中力 […]