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秋山真之の「豆好き」など逸話6選

  • 公開日:2022/04/04
  • 最終更新日:2022/07/03
秋山真之の逸話

1. 秋山真之の豆好き

煎り豆

秋山真之の好物は煎り豆。考え事をしている時には決まってポケットの中の煎り豆を取り出してはボリボリとかじっていたといいます。

実のところ豆に含まれるビタミンB群には、イライラなど神経の不安定や集中力不足に効果があるとのことです。 真之が好んで豆をかじっていたのも、まんざら気休めではなく、理に適っていたのです。

2. サムライ「秋山真之」

トランプ

真之はアメリカからロンドンへ渡る船中で詐欺賭博にひっかかる。

このころの日本の海軍士官は、軍艦の買いつけに行く者が多く、豊富な出張旅費を持っているということで目を付けられていた。真之もヨーロッパ紳士風のアメリカ人からポーカーに誘われ、退屈まぎれからつい誘いに乗ってしまう。とうぜんはじめは勝ち続けたが、次第にどんどん負けてゆく。真之の負けず嫌いの性格も災いし、とうとう有り金全部を捲き上げられてしまった。

一文無しになってはじめて真之も相手のいかさまに気づいたようで、

おい!ちょっと話がある

と一味の頭目を一室に連れ込みカギをかけて閉じ込める。

知らないと思っているのか、見そこなうな!

と、どなりながら、

トリックぐらい先刻見破っていたが、黙ってやるだけやらせて見ていたのだ。詐欺賭博にだまされて、金を捲きあげられたとあれば、サムライ秋山の名折れだ。金は返せ。 いやだといえばこれだぞ

と、白鞘(しらざや)の短刀をぬきとり、キラリと鞘をはらった。すさまじい殺気であったため、おびえた頭目は捲きあげた金を全部投げ返す。

あとでわかったが、そのアメリカ人はイタリア系のギャングであった。ギャングをも震え上がらすほどの「豪傑」真之であったが、この話を知った好古に延々と説教をうけることとなる。兄の前ではうつむいて聞くことしかできない「わんぱく小僧」の真之であった。

3. 行儀の悪い秋山真之

東郷平八郎が連合艦隊司令長官に大抜擢される。寡黙で有名な東郷であったが、行儀の良さも評判で、他人の行儀に対しても関心を示すほどの人であったという。

秋山真之と東郷はそれまで面識がない。当時、参謀長であった島村速雄は東郷司令官に真之を紹介するにあたって、

私のスタッフに秋山真之というのがいます。すごい男ですが、ただ行儀が悪いんです。ひょっとすると起きるべき時間に起きてこないかもしれないし、敬礼もうっかり忘れるかもしれません。それを大目に見て下さいませんか。

と懇願する。大胆で有能で緻密な頭と大きな総合的な判断力とを兼ね備えた島村速雄であったが、この東郷に対して真之の行儀の悪さはたいへん憂慮すべき事態であった。

しかし意外にも東郷は一言

いいよ

といって真之を作戦参謀に起用します。

実はその裏で、かねてから真之をかっていた山本権兵衛が東郷に話をつけていたようです。

4. 秋山真之と財部彪の確執

「秋山真之を、もし軍政の衛に当たせれば大いに功あり」という声があり、実のところ、真之自信も望んでいた。 ただ財部彪も同じ野心があり、この二人は相対立した。

かって艦隊運動に関する会議の席上で、秋山は財部を散々遣り込めてしまった。このことが財部のプライドを傷付けることになった。財部は兼ねてより秋山を薬籠中の者とし味方にしておこうと考えていたが、この一件であきらめる。

逆に秋山が各地で戦争談を行うことに対して、財部一派は「秋山一人の力を以て戦争したる如く世に吹聴するは他人の功を奪うものなり、現に東郷も上村も大に憤慨せり」と二将を引合いに出し非難する。 財部は山本権兵衛の娘婿でもあり、秋山は予備艦隊の艦長に遷され不遇の位置に立つ。

真之はのちに第一艦隊参謀長に栄転するが、実はこれも軍令の方面に遠けて断じて軍政に近づけさせまいとする算段であったという。

秋山真之もまた海軍を以て唯一の立脚地とする程に愉快を感ぜず、常に曰く

余は少将となり得るも、中将たる能はざるべし

と、中将になることを拒んでいた。すでに派閥が力を占めていた時であるから、秋山真之の晩年は不遇といえた。

5. 秋山真之の予見

兎に角潜水艇と云い飛行機と云い、今度の戦争が初舞台で、未だ其応用の初期に属し尚ほ発達の前途は遼遠と云ふべきものである。 然し人智の向上には際限なく、今に戦艦が水中を潜り、巡洋艦否な巡天艦が空中を飛行する時代が到来して、平面戦闘が立体戦闘に推移すべき筈で、一戦を経る毎に一歩一歩と其階段を上りつつあるのである。

『秋山海軍少将 軍談』より

第一次世界大戦を観戦した秋山真之の言葉です。後に、太平洋戦争で登場する大型潜水艦及び大型爆撃機の猛威を予見した言葉です。

6. 秋山真之の直接の死因は”盲腸炎”

第一次大戦において、ヨーロッパ戦線を視察、帰朝後第二水雷戦隊司令官として艦隊勤務と多忙な日々が続く中、大正6年の冬に、突然腹痛を訴えて帰宅する。盲腸炎であった。しかし、真之は入院こそするが、手術をせずに冷やして治療した。これが後に命とりになった。翌年の1月、箱根に滞在中に、また盲腸炎が再発する。しかし近くに盲腸の手術ができる病院がなく、とうとう腹膜炎を併発し、2月4日永眠。

それにしても、兄好古同様、兄弟そろって病院嫌いである。歴史に「もしも」は禁句であるが、真之がもう少し体を大事にする人だったら、歴史は少なくとも変わっていたはずなのに、誠に残念です。

7. おまけ

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