正岡子規、従軍記者となる
1895年(明治28年)3月3日、正岡子規は日清戦争の従軍記者として東京を出発します。
子規の従軍が決定した。(中略)
かれが東京を出発したのは、寒気が去った三月三日であった。その出発にあたって、内藤鳴雪は、君行かば山海関の梅開く
という一句をはなむけした。その前に「日本」の編集同人が子規のために送別の宴を張ってくれたが、その席上、子規は、
かへらじとかけてぞちかふ梓弓
矢立たばさみ首途すわればといういさましい短歌を詠んだ。
小説『坂の上の雲』(根岸)より
子規は、皆の反対にも拘わらず、従軍を志願します。
子規の従軍に対する想いは、河東碧梧桐、高浜虚子に宛てた書簡より察することができます。
征清の事起りて天下震駭し旅順威海衛の戦捷は神州をして世界の最強国たらしめたり、兵士克く勇に民庶克く順に以て此に国光を発揚す、而して戦捷の及ぶ所徒に兵勢振ひ愛国心愈固きのみならず、殖産富み工業起り学問進み美術新ならんとす、吾人文学に志す者亦之に適応し之を発達するの準備なかるべけんや、或は以て新聞記者として軍に従ふを得べし、而して若し此機を徒過するあらんか、懶に非れば即ち愚のみ、傲に非れば即ち怯のみ、是に於て意を決して軍に従ふ
「河東碧梧桐、高浜虚子に宛てた書簡」より
軍に従ふの一事以て雅事に助くるあるか、僕之を知らず、以て俗事に助くるあるか、僕之を知らず、雅事に俗事に共に助くるあるか。僕之を知らず、然りと雖も孰れか其一を得んことは僕之を期す、縷々の理、些々の事、解説を要せず、之を志す所に照し計画する所に考へば則ち明なるべし、足下之を察せよ
その強い意志に根負けした陸渇南は、とうとう従軍を許します。
子規は、その時の嬉しさを、
皆にとめられ候へども雄飛の心難抑終に出発と定まり候、生来希有の快事に候
小生今までにて最も嬉しきもの
初めて東京へ出発と定まりし時
初めて従軍と定まりし時
の二度に候、此上に尚望むべき二事あり候
洋行と定まりし時
意中の人を得し時
の喜びいかならむ、前者或は望むべし、後者は全く望みなし、遺憾々々、非風をして聞かしめば之れを何とか云はん呵々
と述べています。
しかし、この従軍が子規の命を短くしてしまうことになるのでした。