秋山真之と正岡子規の友情(後編):不生不滅明けて鴉の三羽かな
(前編のあらすじ)
松山で誕生した正岡子規と秋山真之は外の世界への憧れを強めるようになり、上京を決意。憧れの東京で東京大学予備門に入学した二人は、立身出世を夢見て学問に励みます。そして、同じ夢を目指す同郷の仲間たちと青春を謳歌していました。
しかし、その仲間の一人が病気で亡くなります。突然の仲間の死に二人は、志半ばにして亡くなった友の為に必ず立身出世し、功を成し遂げようと誓います。
ただ、真之は経済的問題から、軍人の道を選んだのでした。小学校から同じ道を歩んできた二人は、別々の運命を辿ることになります。様々な困難を励ましあい支えあい克服していった、二人の熱き友情の物語の後編となります。
目次
7. 海軍兵学校
秋山真之が海軍兵学校で学んだ場所の一つが広島です。当時欧米列強に対抗するため、海軍は日々厳しい訓練をしていました。真之は海軍軍人として新たな出発点に立ちます。
しかし、その前途は決して平坦ではありませんでした。真之の後輩であった海軍軍人桜井真清の証言記録に依りますと、兵学校に入学した真之の様子は、次のように記されています。
将軍(真之)が殴られたのは喫煙室で、大勢が将軍を其処へ連れ込んで、「貴様生意気だから殴る」と宣言を与えて置いてポカポカやった。将軍は平然として抵抗もせず殴られていた。
桜井真清著『秋山眞之』より
当時兵学校には薩長閥とか佐賀閥とかいったようなものがあり、夫れが校内に蔓って、番カラが幅を利かせた時だった。だから殴った所で、別に大事件でもなければ、珍しいことでもなかった。
維新に負けた藩(賊軍)の出身者ということで、真之は屈辱を味わいます。
8. 三通の手紙
(以下は、NHK番組から引用しています)
子規記念博物館に秘蔵された真之の子規宛の手紙七通の内、三通は海軍兵学校入学前後の時期に立て続けに出されたものでした。その三通はいずれも英文で書かれていました。
(明治19年7月27日)
ミスターマサオカ
君と別れてから百年以上もたったような気がする
(NHK番組より)
一日千秋の思いにせかされ上京したものの東京についてみれば君は日光に旅に出たとのこといたく失望させられた
僕には何も楽しみがなく、「しっとしっと」と繰り言ばかり言っているよ
続く手紙で、真之が打ち明けているのは子規への金の無心でした。
(明治20年4月13日)
マイディアマサオカ
清水君の追善会には参列するつもりだったが金がなく出ることができなくなってしまった
(NHK番組より)
清水君の墓石建立費用の分担金を立て替えてもらえないだろうか
友人の中で僕ほど君に頼る人間はいないだろうな
切実な悩みを英文で子規に書き綴る真之。
しかし、その半年後の手紙では真之に心境の変化が表れています。中身は子規が後輩の為に兵学校に適した予備校を問い合わせたことへの回答です。
(明治20年10月28日)
マイディア
わが学校の入学試験に合格するためにどの予備校が一番よいかと迷っても仕方がない
(NHK番組より)
ただ学習あるのみだろう
海軍兵学校から入学して一年、真之はようやく自信をつけはじめていました。
9. 血に啼く子規(ほととぎす)
一方、子規は未だ大学での生活を謳歌していました。旅行を愉しみながら和歌や俳句に取り組む子規。
しかし、子規は歌を一生の仕事にしようとは考えていませんでした。子規には一つ大きな夢がありました。それはまだ見ぬ西洋を訪れることでした。
アメリカの 波打ちよする 霞かな
子規がとりわけ興味を抱いていたのは、日本を開国に導いた国、アメリカでした。
ところが、子規の夢の一切砕く、転機の時が訪れます。1889年(明治22年)5月9日、子規は寄宿舎内で突然喀血、医師から結核と診断されたのです。
当時、不治の病として恐れられていた病気です。一命はとりとめたものの、この時以来、子規は自らの前途に暗い不安を抱くようになりました。
10. 励ましの言葉
秋山真之は1890年(明治23年)7月、兵学校を卒業海軍少尉候補生となります。
10月、真之は軍艦「比叡」に乗込み、海外への演習公開に出発しました。目的地はトルコイスタンブール。真之が初めて訪れる世界有数の大都市でした。
子規記念博物館に残る真之が子規に宛てた手紙の六通目は、トルコに到着した直後に出されたものです。しかし、この文面には異国の風物については何一つ書かれてはいません。
(明治24年1月1日)
(NHK番組より)
謹賀新嬉
コンスタンチノープル(イスタンブール)まで来たが別に驚く程のものはない
世界は広くしてよほど狭くござ候
世界はどこに行ってもたいして驚くことはなかったと書き送る真之。体調の不良で海外に出ることは難しくなっている子規を思いやる内容でした。子規は遠い異国から届いた真之の手紙に励まされ、自分が打ち込むべき仕事を見定めて行きます。
子規が選んだのは、幼い頃から興味を抱いてきた俳句や和歌を、文学の一つとして研究することでした。1892年(明治25年)9月、子規は大学を中退、新聞社に入社。文藝記者として新しい時代に相応しい俳句や和歌の改革に取り組むようになります。
11. 日清戦争
二人が人生の進路を漸く見つけだしつつあった、1894年(明治27年)8月、日本に未曾有の事態が起ります。近代初めての対外戦争である日清戦争の勃発でした。国内は戦争一色に変わって行きます。真之も出撃命令を受け、戦地中国へと向いました。
子規も志願し、従軍記者として真之を追いかけるように戦地へ向います。しかし、無理をかさねた従軍取材により、またも喀血。子規はこれ以後大きく体調を崩すことになりました。
一方、軍人として戦った真之にとっても、日清戦争は納得のゆくものではありませんでした。まだ若い真之は後方支援にまわされ、艦の故障も重なり目立った功績をあげることはできなかったのです。
12. アメリカ留学
この時、真之が決断したのが、アメリカに留学し最新の兵学知識を身につけることでした。真之は1897年(明治30年)にアメリカ留学を志します。しかし、国費による定員とは別枠の私費留学という形で、特例として認められたものでした。アメリカの私費留学に立身出世をかける真之。
三年という長い留学生活を始める前に、真之は子規に別れを告げます。真之が旅立った8月5日、子規は次のような句を贈っています。
<秋山真之を米国に送る>
君を送りて 思うことあり 蚊帳に泣く
子規が泣いた思うこととは何であったのか、子規はそのことについて、一切記していません。この句の背景を探る重大な記録が近年大阪の民家で見つかりました。真之と別れる1年10ヶ月前、子規が自らの体に起きた異変について書いたものです。
(明治28年10月24日)
腰の間接が痛む
(NHK番組より)
歩くことも自由にならない
これはリウマチによるものだろうか
子規は体の異変をリウマチだと考えていました。しかし、その直後病名が発覚します。高浜虚子宛の手紙で、子規は病名を知った時の驚きを、次のように語っています。
(明治29年3月17日)
貴兄驚き給うか僕は驚きたり
高浜虚子『子規居士と余』より
今日の夕暮れゆくりなくも初対面の医師に驚かされぬ
医師は言えりこの病はリウマチにあらずと
子規がリウマチだと思っていたのは、脊椎カリエス。結核菌が体に広がり、脊椎を蝕む病気です。特効薬がない当時、脊椎カリエスにかかったことは、死が間近に迫ったことを意味していました。
13. 子規庵の地球儀
子規が8年に及ぶ闘病生活を送った東京根岸の子規庵。真之がアメリカに旅立った後、子規はこの庵からほとんど出ることができなくなりました。
子規庵には、子規が愛用した小さな地球儀が残っています。その北半球の一部に、青い縁取りがあり、これは子規自身によるものであり、 囲ってある場所は、憧れの地、アメリカ大陸でした。子規は地球儀を通して、世界に想いを馳せることしか出来なくなって行きます。
子規記念博物館に残る真之の七通の手紙。その最後は留学中のアメリカから病床の子規をねぎらって出されたものでした。自らの顔写真を張り合わせたその葉書には、ただ一つの句が書かれていました。
(明治33年1月1日)
遠くとて 五十歩百歩 小世界
(NHK番組より)
14. 真之からの贈り物
真之はこの頃、子規が少しでも楽になるよう、軽い毛の蒲団をアメリカから贈っています。
枕許にちらかってあるもの、絵本、雑誌等数十冊。置時計、寒暖計、硯、筆、唾壷、汚物入れの丼鉢、呼鈴、まごの手、ハンケチ、その中に目立ちたる毛繻子(じゅす)のはでなる毛蒲団一枚、これは軍艦に居る友達から贈られたのである。
『病牀六尺』(6月7日)より
海外の真之から、精一杯の励ましを受けた子規。激痛に耐えながらも、この頃から新時代に相応しい名句を次々と生み出し、その名声を高めて行きました。
1900年(明治33年)、留学を終えた真之は帰国、二人は再会を果します。
真之は文壇で名を挙げた子規の成功を知り、「はじめはたしか小説家になるようにいうとったが、俳句で偉くなったのか、兎に角えらいわい」と喜んだと云います。
真之も留学の成果を生かし、活躍することを共に誓い合いました。
15. 子規、逝く
しかし、真之が帰国した明治33年頃から、子規の病状は急速に悪化します。
子規には、真之が海軍で成功する姿を見届けるだけの体力は、もう残されていませんでした。一進一退の病状が続いていた、1902年(明治35年)9月19日、子規は遂にこの世を去ります。(享年34)
臨終の時まで子規が肌身離さなかったのは、真之から贈られた毛の蒲団だったと云います。
葬儀の日、真之がやって来たのは、子規の棺が家を出て、間もなくでした。袴を履いて現われた真之は、道端に立ち止まって一礼し、足早に立ち去ったと云います。
「一刻も早く兵学家として大成するため、仕事に戻ることが、何よりも友の供養になると思う」
真之はそう考えたのかもしれません。
これが子規と真之の永遠の別れとなりました。
16. 天気晴朗なれども浪高し
子規の死の2年後に起きた日露戦争で、真之は東郷平八郎の軍事参謀に抜擢されます。
日本を勝利に導いた名参謀として、その名を歴史に刻むことになります。
天気晴朗なれども浪高し
という、日本海海戦で真之が打った電文は、緊張感の中に優雅が漂う名文として知られます。
子規と熱中した詩歌の心は、軍人となった真之の中に生き続けていたのでした。
17. 三羽の鴉(からす)
子規の死から16年後の1918年(大正7年)2月4日、真之は盲腸炎を患い小田原で亡くなります。(享年49)
夜明け頃に詠んだという辞世の句は、子規が命をかけて打ち込んだ俳句によるものでした。
不生不滅 明けて鴉の 三羽かな
三羽の鴉とは、子規と真之と、そして志半ばで亡くなった清水則遠のことだったのかもしれません。
近代日本が初めて世界に踏み出した激動の時代、様々な困難を友情だけで支えあい克服していった子規と真之。明治国家から誕生140年、故郷松山で大事に守られている子規と真之の手紙は、かけがえのない青春の素晴らしさを語り続ける記録として、今なお光を放ち続けています。
(NHK番組より)
18. あとがき
本文の構成は、2008年(平成20年)4月4日(金)に四国地区で放送されました、NHK四国スペシャル「贈られた言葉」 - 正岡子規と秋山真之 交流の記録 - を参照しています。なお、画像等につきましては番組とは一切異なります。
この年、私は名古屋市に住んでいたため、四国限定のこの番組を観ることができなかったのですが、松山市の後輩に番組の録画をお願いし、郵送で届けてもらい観ることができました。
番組の構成が素晴らしく、特に最後の秋山真之の辞世の句の考察はとても共感いたしました。
参考文献
- 『秋山眞之』(桜井真清)
- 『子規居士と余』(高浜虚子)
- 『子規を語る』(河東碧梧桐)
- 『正岡子規全集』(正岡子規)
- 『子規居士』(柴田宵曲)
- 『筆まかせ』(正岡子規)
- 『病牀六尺』(正岡子規)
- 『坂の上の雲』(司馬遼太郎)