坂の上の雲の登場人物相関図
1. 小説「坂の上の雲」の登場人物相関図
2. 主人公
秋山真之(あきやまさねゆき)
1868年(明治元)3月20日~1918年(大正7年)2月4日。明治・大正期の海軍軍人。愛媛県出身。幼名は淳五郎。1890年(明治23年)海軍兵学校卒。日清戦争に砲艦筑紫の航海士として参加し、戦後アメリカに留学して米西戦争を観戦。米・英駐在の三年間に海軍の戦略・戦術・戦務の三概念を具体化し、帰国後海軍大学校教官となり普及させた。日露戦争では連合艦隊作戦参謀として活躍。1914年(大正3年)海軍省軍務局長となり、第一次大戦では艦隊の地中海派遣を推進した。中将で没。
秋山好古(あきやまよしふる)
1859年(安政6年)1月7日〜1930年(昭和5年)11月4日。明治・大正期の陸軍軍人。伊予国(今の愛媛県)出身。幼名は信三郎。秋山真之の兄。陸軍士官学校を卒業し、陸軍大学校に進んだ後、フランスに留学。騎兵科の設立に大きく貢献し、乗馬学校の校長や騎兵監を務める。日清戦争や日露戦争では騎兵部隊を指揮し活躍した。1916年(大正5年)に陸軍大将。
正岡子規(まさおかしき)
1867年(慶応3年)9月17日〜1902年(明治35年)9月19日。明治時代の俳人や歌人。伊予国(今の愛媛県)出身。幼名は処之助。のち改め升(のぼる)。本名は常則(つねのり)。秋山真之とは幼い頃からの友人。松山で寺子屋に通い、藩の学者から漢字の勉強を学ぶ。松山中学校では自由民権運動に興味を持ち、政治家を目指し、1883年(明治16年)に東京に行き、大学予備門に入学し、そこで夏目漱石と出会う。やがて美の学問である審美学に興味を持ち、和歌や俳句を始める。その後、1892年(明治25年)に東京大学を退学し、日本新聞社で働きながら文章を書く仕事を続ける。結核という病気と闘いながらも、1897年(明治30年)に松山で発行された雑誌「ホトトギス」を支援。1898年(明治37年)に「歌よみに与ふる書」を発表し、短歌の新しいスタイルを提案。根岸短歌会という会を作り、「ホトトギス」の編集も担当して伝統詩を新しくしようとするが、結核で倒れる。作品には「墨汁一滴」「仰臥漫録」「病牀六尺」という随筆や、「寒山落木」という俳句集、「竹乃里歌」という歌集がある。
3. 海軍
東郷平八郎(とうごうへいはちろう)
1847年(弘化4年)12月22日~1934年(昭和9年)5月30日。海軍軍人。鹿児島藩士出身。薩英戦争と戊辰戦争海戦に参加後、1871年~1878年(明治4年~明治11年)イギリスに留学。日清戦争のとき大佐で浪速艦長として出征。豊島沖で清国兵を輸送中のイギリス商船高陞号を国際公法にもとづいて撃沈し、有名となる(高陞号事件)。戦後、海軍大学校校長と佐世保鎮守府・常備艦隊・舞鶴鎮守府の各司令長官を歴任し、1903年(明治36年)12月連合艦隊司令長官となる。1904年(明治37年)大将。日露戦争中の全海軍作戦を指揮し、ロシアの旅順艦隊には黄海海戦で勝ち、バルチック艦隊には日本海海戦で完勝した。提督としてネルソンと並び称される。戦後、海軍軍令部長となり元帥。大正期に東宮御学問所総裁、死去後に侯爵に昇叙され国葬。
広瀬武夫(ひろせたけお)
1868年(明治元年)5月27日~1904年(明治37年)3月27日。海軍軍人。大分県出身。海軍兵学校卒(15期)。1897年〜1902年(明治30年〜明治35年)ロシア留学。戦艦朝日水雷長として日露戦争に出征、旅順港の閉塞作戦で戦死。その部下を思っての死は「軍神」として伝説化され、国民的英雄となった。一方、ロシア女性とのロマンスの経験をもつなど、深い教養と誠実で明るい人柄の魅力的な人物でもあった。
- 山本権兵衛
- 日露戦争では東郷平八郎を連合艦隊司令長官に大抜擢するなど、大本営幕僚長として活躍する
- 上村彦之丞
- 日露戦争では第二艦隊司令長官として奮戦
- 島村速雄
- 日露戦争では開戦時に連合艦隊参謀長、日本海海戦には第二艦隊第二戦隊司令官として奮戦する
- 加藤友三郎
- 日露戦争では連合艦隊参謀長として、日本海海戦を指揮する
4. 陸軍
児玉源太郎(こだまげんたろう)
1852年(嘉永5年)閏2月25日〜1906年(明治39年)7月23日。明治期の陸軍軍人。周防国徳山藩士の子。兵学寮卒。神風連の乱・西南戦争でその才能を知られる。陸軍大学校の充実に力を注ぎ、ドイツからメッケル少佐を招聘し国軍の将校教育に多大な貢献をした。1892年(明治25年)陸軍次官兼陸軍省軍務局長となり、日清戦争では事実上の陸相として活躍。1898年(明治31年)には台湾総督となり後藤新平を登用し台湾の安定化に寄与した。さらに陸相・内相・文相を兼任。日露戦争開戦直前の1903年(明治36年)、参謀次長田村怡与造少将の急死を受け、参謀本部次長に格下の職種であったが自ら志願し就任、対露作戦計画を練り上げた。日露戦争においては満州軍総参謀長に就任。戦後、参謀総長・南満州鉄道創立委員長。
乃木希典(のぎまれすけ)
1849年(嘉永2年)11月11日~1912年(明治45年)9月13日。明治期の陸軍軍人。萩藩士の子。1865年(慶応元年)報国隊に参加し幕府軍と戦う。1869年(明治2年)伏見御親兵兵営に入営、翌年脱藩騒動鎮圧のため帰藩。西南戦争では軍旗を失う。1886年~1888年(明治19年〜明治21年)川上操六とともにドイツ留学、帰国後軍紀確立を主張する報告書を提出。日清戦争では歩兵第一旅団長として旅順攻略。1896年(明治29年)に台湾総督に就任。日露戦争では第三軍司令官として旅順攻撃を指揮、二子をはじめ多くの戦死者をだす。戦後学習院院長。明治天皇の大喪の日、妻静子とともに殉死。国民的英雄として多くの伝説をうみ、またその死は賛否両論をまきおこした。
- 大山巌
- 日露戦争では、満州郡総司令官を務める。長州閥の山県有朋と並ぶ陸軍の実力者
- 明石元二郎
- 日露戦争中にストックホルムで諜報活動を行い、ロシア革命派を側面から支援する
- 白川義則
- 秋山真之と同い年。真之が秋山好古の下宿先を出た後に同居することになる。好古から気に入られていた陸軍の後輩
5. 一般
秋山家
- 秋山久敬
- 秋山兄弟の父。旧松山藩時代は徒士目付筆頭の職をつとめる
- 秋山貞
- 秋山兄弟の母
- 秋山多美
- 秋山好古の妻。旧旗本佐久間正辰の長女
- 秋山季子
- 秋山真之の妻。宮内省御用掛稲生真履(まふみ)の三女
正岡家
- 正岡常尚
- 子規の父
- 正岡八重
- 子規の母。松山藩の武士だった夫の常尚没後、子規と妹の律をやさしく育てる
- 正岡律
- 子規の妹。二度の離婚を経て上京。その後、献身的に子規の看病をする
- 大原観山
- 子規の母方の祖父。旧松山藩随一の学者で藩儒をつとめる
- 加藤恒忠
- 子規の叔父で、秋山好古とは無二の親友。晩年松山市長を務める
その他
- 夏目漱石
- 大学時代に子規が手掛けた文集に批評を書いたことで親交が始まる
- 高浜虚子
- 子規門下四天王の一人
- 河東碧梧桐
- 子規門下四天王の一人
- 高橋是清
- 真之、子規が通った共立学校の英語の先生。のちに日露戦争の戦費調達の外債募集で大活躍した
- 陸羯南
- 新聞「日本」を創刊したジャーナリスト。子規の大恩人