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児玉源太郎の人となりが表れる逸話7選

  • 公開日:2022/06/28
  • 最終更新日:2022/07/03
児玉源太郎

1. 児玉源太郎の水浴び
児玉大将産湯之井戸
児玉大将産湯之井戸

児玉源太郎は幼年7歳の時から水浴びを始めます。以来、日露戦争の始まるまでの50年間は毎日欠かさず水浴びを続けたといいます。井戸に往き、頭からザブッと浴び、寒中といえども決して欠かすことはなかったといいます。ただ、どうしてこの水浴びを始めたかというと、源太郎の頭の悪さを心配した母親が水浴びを勧めたからというのだそうです。

児玉源太郎は、いかなる境遇にある時でも母の教えを守りそれを絶やさなかったというのです。この水浴びは単なる一小事ですが、その後の児玉源太郎の活躍を振り返るならば、ここに児玉源太郎の意志の強さをうかがい知ることができます。

2. いかなる時でも軍略家!児玉源太郎

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児玉源太郎は外へ出るのに軍服の外には羊羹色の羽織一枚しか持っていなかった。それに大借金をかかえており、霊南坂の屋敷を志賀重昂に売り、その借金の整理をした。

児玉は日清戦争の時、陸軍大臣代理で非常の繁忙を極め、戦争中はまるで陸軍省へ寝泊りをして三度が三度弁当飯ばかりを食べて留守番したという。その元気には皆驚いたという。

平壤が落ちたとの電報が来た晩だけは、あまりの嬉しさに副官の山内大佐に後を頼んで烏森の湖月まで愉快に一人で出てきた。湖月の方では兼ねて児玉から申し込みがあったと見えて芸者十幾人待たせてあった。ただ、児玉が来る、座る、飲む、歌う、踊る、騒ぐ、帰るまでの間がきっちり30分であり、その1分1秒暇も隙もない手際の良さは、いかにも軍略家であった。

3. 洋服屋に誉められた

児玉源太郎
児玉源太郎

児玉はドイツでの自慢話があり、何でもベルリンの洋服屋で大いに誉められたと喜んでいた。

すると或人が横槍を入れて、

それは閣下が余り小さいので、洋服屋が仕立に骨が折れぬから誉めたのでしょう

と皮肉に云うと、児玉は手を振って、

いやそうではない。俺の身体は小さい事は小さいが、大抵の日本人は、胴が長くて脚が短いに係わらず、貴方の様な身体は、総てが適当に発達している。貴方のような身体は、他の日本人には見ないと云って、たいへん誉められたのだ。

と言い返した。

児玉はこの誉められ方が余程気に入ったのか、「小さい」とか何とか云うものがあると、直ぐにこの話を持ち出して反撃したそうである。

4. 大和魂と独逸魂

児玉源太郎が備前長船の名刀を仕込んだ軍刀を帯びてメッケル将軍を訪問した時の事。

メッケル将軍はその軍刀を抜いてしきりにこれを称賛しました。児玉はこれに応えて、

これこそ大和魂である

と云います。するとメッケルも自身の帯剣を指差して、

これは独逸魂だ

と言い返しました。負けず嫌いの児玉は、

然らば独逸魂は油鍛にして大和魂は清水鍛である。両個精神の清濁を以て知るべし

と遣り返したのでした。これにはメッケルも大笑いしたそうです。

5. 「こりゃ、おれがクビだ」

乃木希典
乃木希典

陸軍の参謀長として全軍を縦横に動かしていた児玉源太郎は乃木希典とは同郷であり、陸軍士官学校も同級の親友であったが、演習ではいつも乃木を負かしていた。

「気転(希典)の利かない野狐(乃木つね)を、七分小玉(児玉)で打ち上げた」

と、児玉は自作の軍歌でいつも乃木をからかっていた。

旅順がこう落ちなくては、今まで有利に進めてきた戦局もしだいに不安の色が濃くなってくる。児玉の心中は懊悩その極みに達した。親友乃木を頼んだのは私心であったかもしれない。国の安危の前にはいささかの私心も許されるべきではない。ついに児玉は決意をかためて大本営で明治天皇に、

乃木では旅順は落ちそうもありません。第三軍の司令官を更迭すべきかと存じます。

と申上げた。 しかし、明治天皇は軍刀の柄の上に両手を重ねたままの姿勢を微動だにせず、児玉を直視したまま何もいい出されなかった。

声が小さかったので、お耳に達しなかったかと児玉はもう一度同じことを申上げた。しかし、陛下は依然としてそのままである。児玉の額に汗がにじんだ。旅順には変えられぬと思った彼は、さらにもう一度、同じことを申上げた。だが、陛下は、児玉がいないかのように、前方を直視したまま、何事も言い出されなかった。

「こりゃ、おれがクビだ」

そう思った児玉は冷汗をかいたまま御前を退出した。

6. 天保銭をむしりとる

苦戦の旅順戦で、児玉源太郎満州軍参謀長は、司令官大山巌元帥の代理で、旅順におもむきます。もちろん攻城作戦の督励であり、その指導は、見るもの、聞くものが恐怖さえ感じるほどの凄まじさでした。

徽章(天保銭)
徽章(天保銭)

児玉はいきなり参謀会議で、一参謀の胸につけてあった「天保銭」をむしりとります。天保銭というのは、陸軍大学卒業生にのみ与えられる名誉の徽章です。つまり、軍のエリートです。

その記章をむしりとった児玉がいった有名な言葉。

国家は貴官を大学校に学ばせた。貴官の栄達のために学ばせたのではない

7. 児玉源太郎の死因は「脳溢血」

日露戦争終結後の翌年の1906年(明治39年)7月23日、児玉源太郎は脳溢血により突然亡くなります。それは何人の耳にも青天の霹靂の事態でした。

児玉は日露戦争の頃に、一度この種の病に罹ったことがありました。しかしその時は極く軽症で、医師の手当により全快しています。この為好きなお酒を控えるなど身体を労わるようになりますが、長くその病気が再発しない模様なので、いつしかその事を忘れてしまい身体を酷使するようになり、さらに戦局が拡大すると頭脳を使うことも非常で、身体の静養も充分にとることができなくなります。

然るに難攻の旅順が陥落したと聞くと、児玉は喜びに絶えず、祝賀だとシャンパンを浴びるほど飲み、それがいつしか節酒から大酒にと変わり、特にウィスキーなどを随分驚くほど飲むようになってしまいます。児玉は酒はそれほど強くもなかったようですが、その気性から、人が飲めばいくらでも相手になって飲むこともあり、これが酷く身体を損なう原因となります。

日本に凱旋してからも、連日祝賀会その他の宴会が続き、さらには参謀総長の重職による頭脳の酷使から、多少は脳病を感じてはいましたが、「なぁに、大したことはあるまい」と気にしていませんでした。

然るに7月21日、児玉は体調がすぐれないと主治医多納氏を呼びます。診断したところ熱37度6分はあるが、ただ咳や頭痛もなく食事も平生と変わらないので、主治医は軽い風邪と診たて、とりあえず本日は外出を控えて安静するようにとお願いします。

翌22日、主治医が再び診断しますが熱は37度5分と下がっていませんでした。しかし児玉は「今日は気分がいい」と主治医に告げ、その昼に訪ねてきた台湾民政長官の後藤新平と夕方まで昔話を楽しみ、夕食は専ら好んだ西洋料理を止め、その日は日本料理を食します。その後も家族と会話を愉しみながら21時に寝室に退きます。21時半に児玉宛に一通の電報が届いたので、侍女がそれを寝室に届けた時は児玉はまだ起きていたと云います。

そして翌23日早朝、主治医が診断に訪れます。松子夫人より「まだ起きていない」と告げられるが、ただ早起きを常とする児玉であったので、夫人はその旨を主治医に告げていると、その時侍女が「御前様がお起きになられません」という声があり、寝室にかけつけてみるとなんと児玉は既にこときれていました。

その顔に苦痛などはなく、寝顔のままであったと云います。

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