東郷平八郎元帥の国葬
1934年(昭和9年)5月30日午前7時、元帥・海軍大将・正二位・大勲位・功一級・侯爵東郷平八郎が逝去します。その生前の偉大な功績に対し、従一位に昇位、そして国葬を賜ります。
1. 東郷平八郎、逝去
東郷平八郎は毎年5月27日に開かれる日本海海戦記念祝賀会には唯の一度も欠席をしたことがありませんでした。しかしながら、1934年(昭和9年)5月27日の第29回日本海海戦記念祝賀会は病気を理由に、はじめて欠席します。
東郷元帥は、1933年(昭和8年)の87歳になった春頃から病床につくことが多く、同年暮には喉頭癌と診断され、当時としては最高の治療が続けられたが、老体に加えて膀胱結石、気管支炎、坐骨神経痛などの余病の併発で衰弱が進んでいました。
そして、その日の夕刻に、海軍省より下記の発表がラジオにて全国放送されました。
東郷元帥には昨年夏頃より発病、秋季に至り時々咽喉部に異物感及び軽痛あり、その後一進一退の状況にて喉頭癌の診断の下に放射線療法その他の治療を施しつつあるも、老体に加うるにその間、時々宿飫痾たる膀胱結石、坐骨神経痛を起し、又気管支炎等を併発せるを以て衰弱加わり、昨今心痛すべき容体にあり
(5月27日午後6時発表)
そのニュースが伝わると皇室を始め内外各方面からの見舞いが殺到し、天皇陛下からはそれ以前からスープの御届けがありましたが、侍従長を御差遣になり、異例のお見舞いとなりました。
29日には、数年前から病臥していたテツ夫人との最後の対面が行われました。永年のリウマチで、手も足も利かず、起き上がることすらできないテツ夫人の寝台を元帥の病室の次の間に運んで、互いに顔を見合わせます。東郷元帥は二三度頷かれ、夫人の眼に涙が光っていたと云います。
この時、テツ夫人は付添の看護婦に、
私は身体が不自由なばかりに、何一つ御看護申上ぐることができません。旦那様に何と申訳してよいやら。乃木さんの奥様は、お幸せでしたね。旦那様の後を追って殉死なさることがおできになりました。私には、それすら叶わぬのです。この不自由な手では――
と洩らしたとも云います。
この日、特に東郷元帥に侯爵が授けられます。
依勲功特陞授侯爵 正二位大勲位功一級伯爵 東郷平八郎
この時ばかりは東郷元帥も病床ながらも姿勢を正して、恩命を畏み拝受し、感涙したと云われます。
しかしながら、翌日5月30日の午前7時、東郷平八郎は静かに眠るように息をひきとります。享年86。
その生前の偉大な功績に対し、従一位に昇位、そして国葬を賜ります。
故元帥海軍大将従一位大勲位功一級侯爵 東郷平八郎
特ニ国葬を賜フ
御 命 御 ?
昭和九年五月三十日 内閣総理大臣子爵 斉藤実 副署
2. 国葬とは
国葬とは、国家の儀式として国費によって行う葬儀となります。
天皇家や皇族、特別の功績がある者に適用されます。1926年(大正15年)10月の国葬令により明確化されますが、それ以前もそのつど勅令を発して行われています。1883年(明治16年)の岩倉具視が最初で、島津久光・三条実美・伊藤博文・大山巌・山県有朋・松方正義らが主な例となります。
国葬令以降は東郷平八郎、西園寺公望、山本五十六、閑院宮載仁親王らがあります。
戦後は特別な規定はないが、吉田茂、昭和天皇が閣議決定によって国葬とされました。
3. 東郷平八郎元帥の国葬
1934年(昭和9年)6月5日、東郷平八郎元帥の国葬が、日比谷公園で執行されました。葬儀の司祭長は海軍大将加藤寛治が務めます。
葬儀当日は、海軍からは銃隊二個大体及び軍楽隊を儀仗隊として、陸軍からは、近衛師団所属歩兵第三、第四連隊、騎兵一個連隊、野砲兵一個中隊、第一師団所属歩兵第一連隊、騎兵第一連隊の一個中隊、野砲兵第一連隊、合計5,000名より成る大部隊を儀仗隊として、参列しました。
さらに、各国からは
- イギリス海軍からは、支那艦隊司令長官ドレーヤー大将及び旗艦「サフォーク」
- アメリカ海軍からは、亜細亜艦隊司令長官アッパム大将及びその旗艦「アウグスタ」
- フランス海軍からは、極東艦隊司令長官リシャール中将及びその旗艦「プリモーゲ」
- イタリア海軍からは、極東艦隊の一艦「クワルト」
- 中華民国からは、王壽延中将及び軍艦「寧海」
と、それぞれ国葬参列の為に特派し、これら各国海軍の儀仗兵が葬列に加わります。
午前8時30分、砲車に載せられた故元帥の霊柩は麹町三番町の東郷邸を発引し、同刻には全海軍の緒艦は弔旗を掲げ、19発の弔砲を発射し、英米仏伊支五国の派遣艦もまたこれに倣いました。葬列の順路は、東郷邸から富士見町、青葉通角、半蔵門、桜田門、霞ヶ関、日比谷公園正門と、実に1,524メートルとなります。沿道は人で埋まり、各家は黒幕を張り弔旗を掲げて慶弔の意を表します。
霊柩の棺側者は以下となります。
海軍中将 飯田久恒 | 海軍大将 末次信正 | 海軍中将 清河純一 |
海軍大将 黒井悌次郎 | 海軍大将 大角岑生 | 海軍大将 安保清種 |
海軍大将 谷口尚真 | 海軍大将 竹下勇 | 海軍大将 山本英輔 |
海軍大将 岡田啓介 | 陸軍大将 真崎甚三郎 | 枢密顧問官 河合操 |
陸軍大将 渡辺錠太郎 | 枢密院副議長 平沼騏一郎 | 陸軍大将 奈良武次 |
貴族院議員 徳富猪一郎 | 陸軍大将 町田経宇 | 海軍法務官 吉村幹三郎 |
4. 東郷元帥の遺愛品
その後、霊柩は日比谷を発引し、自動車に乗り換えられて一路多摩墓地に向かいます。
実はこの東郷元帥の葬儀に、あの秋山真之がお供していたのでした。
えっ?
と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、お察しの通り、秋山真之は16年前の1918年(大正7年)にすでに亡くなっていますので、実際には葬儀にお供することはできません。
なぜそんなことを言うのかと申しますと、それは東郷元帥の棺中に納められた遺愛品を覗いてみるとわかります。
棺中に納められた品々は以下となります。
- 冠装束と杖
- テツ子刀自の髪一束
- 各親族が切った爪
- 平素愛用されていた筆と墨と硯と紙
- 庭前を歩かれる時などに用いられた杖
- 煙草入れと敷島
- 平素使用されていた和漢辞典
- 本ばさみ
- 庭に出て植木の手入れなどをする時使用されたソフト帽
- 常に身辺に置いていた『東郷元帥詳伝』(小笠原長生著)
- 読みかけの本『秋山真之』(秋山真之会編)
そうです、前年の1933年(昭和8年)に発刊された秋山真之の伝記本が東郷元帥の遺愛品に選ばれていたのでした。
東郷平八郎司令長官は、参謀秋山真之を従えて、黄泉の国に出帆したのでした。
5. 葬儀余話
14時58分には日比谷を発引した霊柩は、自動車に乗り換えられて一路多摩墓地に向かい、墓所の儀が厳かに了えられたのは19時となりました。
葬儀のこの日より五十日祭の果てる迄、日露戦争中に東郷平八郎元帥の旗艦「三笠」に勤務した将士は、毎日交代で欠かさず元帥の墓所に奉仕したといいます。
特に、当時大尉参謀であった清河純一中将は老躯にもかかわらず、毎日謹直に奉仕し、他の参拝者を太く感動させたといいます。しかし、その彼も体に無理を強いたために、翌大正10年の3月1日に亡くなります。