正岡子規の墓誌銘
1898年(明治31年)7月13日、正岡子規は「正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹の里人・・・」という墓誌銘を、河東銓に宛てて書き送ります。
正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹の里人伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ム父隼太松山藩御 馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養 ハル日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日没ス享年三十□月給四十圓
この時、子規は河東銓に次の手紙も同封していました。
アシヤ自分ガ死ンデモ石碑ナドハイラン主義デ、石碑立テテモ字ナンカ彫ラン主義デ、字ハ彫ツテモ長タラシイコトナド書クノハ大嫌ヒデ、ムシロコンナ石コロヲコロガシテ置キタイノヂヤケレドモ、万一已(や)ムヲ得ンコトニテ彫ルナラ別紙ノ如キ者デ尽シトルト思フテ書イテ見タ、コレヨリ上一字増シテモ余計ヂヤ
これにより正岡子規のお墓には戒名などなく、単に「子規居士之墓」と上述の墓誌銘が刻まれています。