秋山好古と秋山真之:この兄、この弟
『同胞(はらから)』という言葉や、『連枝』という表現は、兄弟間の年長者と年少者の序列を示し、これは君臣の義理、父子の親愛、夫婦の区別、友人間の信頼とともに、人間関係の基本的な道徳として称賛されています。兄弟という言葉には「世界中の人々は皆兄弟である」という意味もありますが、この場合は、より狭い意味で、血縁を共にして家族の名声を高め、共通の目的のために協力するという例が古来から多くあります。
1. 同胞(はらから)の交わり
その中でも特に有名なのが十郎と五郎の曽我兄弟で、富士の巻狩で父の仇を討った話は長く多くの人々に語り継がれています。松王、梅王、桜丸の三兄弟が菅秀才を巡って争った物語も、現在でも演劇界で人気があります。また、新羅三郎義光が足柄山で月明かりの下で秘伝を学んだ後、兄義家を助けるために陸奥へ向かった話や、安倍貞任と宗任兄弟が義家の軍を苦しめた話など、敵対する兄弟間の深い愛情も歴史上著名です。これらの話は、文武両道を極め、物の哀れを理解する勇士として称賛されています。
世の中にはこのような美談がある一方で、兄弟間の悲しい争いの話もあります。例えば、源氏の内紛は、義朝と為朝の争い、頼朝が義経を殺害するなど、家族間の争いが鎌倉幕府の衰退を早めたとされています。これは「六国を滅ぼしたのは秦ではなく、六国自身である」という教訓にも通じます。
2. 兄弟の数々
なお、本編の主目的は、明治時代以降に名を馳せた兄弟を紹介することです。最初に注目すべきは、甲州の広瀬家です。9人の兄弟の中で、社会で名を成した人物には久政(代議士)、為久(実業家)、猛(陸軍中将)、若尾璋八(実業家)、神戸久誠(医学博士)がいます。
四人兄弟には
・郡司 成忠(千島探検家) ・幸田 露伴(文学博士) ・幸田 成友(文学博士) ・幸田 延子(女流音楽家) | ・井上 通泰(医博、歌人) ・柳田 國男(土俗学研究家) ・柳田 静雄(言語学者) ・松岡 映丘(書家) |
三人兄弟には、
・徳大寺 実則(公爵、元侍従長) ・西園寺 公望(公爵) ・住友 吉左衛門(男爵、財閥家) | ・有島 武郎(文士) ・有馬 生馬(書家) ・里見 弴(文士) |
二人兄弟として特筆すべきは、南洲と従道の西郷兄弟、弥太郎と弥之助の岩崎兄弟です。軍人の兄弟としては、大迫尚道と尚敏が共に陸軍大将、百武三郎(侍従長)と源吾(軍事参議官)が共に海軍大将であることが挙げられます。兄の鈴木貫太郎は海軍大将で枢密顧問官を務め、弟の孝雄は陸軍大将で現在靖国神社の宮司です。また、野津鎮雄(海軍中将)と道貫(元帥、侯爵、陸軍大将)兄弟、田村怡与造と沖之丞(共に陸軍中将)も注目されます。
特に、故人の中で秋山好古(陸軍大将)と真之(海軍中将)兄弟に焦点を当てます。
3. 秋山騎兵団の活躍
日露戦争には数多くの英雄がいましたが、秋山好古将軍の名が挙がると、彼が奉天大会戦において騎兵部隊を率い、敵の大騎兵団の退路を遮断し、乃木軍の迂回作戦を支援して大勝利に貢献した殊勲が思い浮かびます。彼は1859年(安政6年)正月に伊予松山で生まれ、1879年(明治12年)に陸軍士官学校を卒業し、騎兵少尉に任命されました。その後、陸軍大学校を卒業し、1887年(明治20年)仏国に留学し、在留4年半、帰国後すぐに勃発した日清戦争では騎兵第一大隊を率い、1902年(明治35年)には少将に昇進しました。日露戦争では第三軍に所属し、秋山騎兵団長として顕著な功績を残しました。この騎兵団の活躍については、陸軍少将で騎兵科出身の河野恒吉が『週刊朝日』に詳しく記述しています。
秋山将軍の最も重要な功績の一つは、日本騎兵の発展に貢献したことです。日清戦争直前の創設時代から日露戦争直後の充実期に至るまで、彼は中核となる人物でした。騎兵第一旅団長としての日露戦争出征は意義深く、困難な任務でした。特に、騎兵旅団は広大な満州の野での戦闘を見越して創設され、強力なロシア騎兵に対抗するための準備が整えられていましたが、馬の補充が困難な状況でした。
秋山旅団は開戦初期から第二軍の指揮下で活躍し、敵情の捜索や軍の側翼の警戒・保護に当たりました。その中で特筆すべき功績は下記になります。
- 遼陽戦での第二軍左翼の保護
- 旅順陥落後の黒溝台での露軍の猛攻撃に対する防御
- そして奉天戦での乃木軍の迂回運動の支援
これらの活躍は奉天の大勝利に大きな影響を与えました。
戦後、秋山将軍は騎兵監、万国平和会議委員、騎兵学校長、第十三師団長、近衛師団長、朝鮮軍司令官などを歴任し、1916年(大正5年)には陸軍大将に任命されました。その後、軍事参議官や教育総監を務め、1923年(大正12年)に65歳で予備役に編入されました。晩年は北予中学校長として育英に尽くし、1930年(昭和5年)に71歳で逝去しました。
故郷では彼の徳望を慕い、松山市外の道後公園に彼の銅像が建立されました。彼は功成り名を遂げると同時に、弟の真之を支援し、最終的には海軍の名戦術家に育て上げました。この情誼は世に伝えられています。
4. 敵艦見ゆとの警報
秋山真之は、日本海海戦でその卓越した能力を発揮し、日本の海軍史にその名を刻みました。この戦いで、彼は東郷司令長官の下で少佐として幕僚に加わり、参謀長大佐島村速雄、参謀中佐有馬良橘、大尉松村菊男らと共に参戦しました。彼の知恵と戦略が、この重要な戦いにおける勝利に大きく貢献したのです。
特に注目されるのは、彼が筆にした名文の報告です。「敵艦見ゆとの警報に接し、聯合艦隊は直に出動、之を撃滅せんとす、本日天気晴朗なれども浪高し」、「舷々相摩す」、そして「天佑と神助に由り我が聯合艦隊は」といった表現は、彼の文才と戦況を的確に伝える能力を示しています。これらの報告は、日本海海戦の記録として重要な役割を果たし、秋山真之の名を海戦史に不滅のものとしました。彼の兄・好古が陸軍で名を馳せたのに対し、真之は海軍でその才能を発揮し、兄弟共に日本の軍事史において重要な人物として記憶されています。
秋山真之は1868年(明治元年)、松山で生まれました。幼少期は兄・好古(信三郎)と共に育ち、15歳で上京して厳しい教育を受けました。その後、同郷の正岡子規と共に大学予備門に通い、深い友情を築きました。子規の随筆には真之の名がしばしば登場し、彼らは柳屋つばめの奥州仙台節を熱心に練習したことも記されています。また、世界的植物学者となった南方楠熊も同級生で、彼の著書『南方随筆』にもその頃のことが記述されています。
子規の随筆『筆まかせ』では、夏目漱石を「畏友」、菊池謙二郎を「厳友」、勝田主計を「郷友」とし、秋山真之を「剛友」としています。英国留学時には子規から「暑い日は思い出せよ富士の山」という句を、米国への出発時には「君を送って思うことあり、蚊帳に泣く」という句を贈られました。これらの句は彼らの深い絆を象徴しています。
5. 伯楽を得た千里の馬
兄・好古が陸軍で名を成したのに対し、秋山真之は海軍への道を志し、1886年(明治19年)に兵学校に入学しました。当時、広瀬中佐は彼より一級上でしたが、二人は親しく交流していました。寄宿舎の隣家の女中は二人について、「広瀬さんは怖い顔に似合わず優しいが、秋山さんは顔はそこまで怖くないが、何となく近づきにくい」と評していました。これは子規が彼を「剛友」と評した理由を裏付けるものです。
少尉になった真之は、龍驤、松島、吉野、筑紫、和泉、大島、八重山などの艦船に乗り組み、1897年(明治30年)に大尉に昇進し、米国への留学を命じられました。帰国後、1900年(明治33年)には常備艦隊参謀、1902年(明治35年)には海軍大学校教官になり、1903年(明治36年)には聯合艦隊の組織が整うと、東郷長官により参謀に指名されました。このとき、彼は大海戦において重要な役割を果たし、海軍の戦術家として名声を確立しました。東郷司令長官は彼のような優秀な参謀を得て、敵艦隊を破る強力な布陣を築き、真之もまたその手腕を発揮しました。
このことは、千里の馬(真之)が伯楽(東郷)に出会ったようなものでした。旗艦三笠から発せられた名高い報告については、既に述べた通りです。東郷元帥が彼の伝記に「秀武精文」(武に秀で文に精し)という題をつけたのには、そのような背景があります。
戦後、海軍大学教官、三笠副長、秋津洲、音羽、橋立、伊吹の各艦長や第一艦隊参謀長を歴任し、1913年(大正2年)には少将に昇進して海軍省軍務局長に就任しました。シーメンス事件を処理し、欧州大戦中に再び海外へ行き、第二水雷戦隊司令官になりました。1917年(大正6年)には中将に昇進しましたが、病気のために待命となりました。秋山真之の人生のクライマックスは日本海大海戦での活躍にありました。彼はこの戦いに全精力を注ぎ、海軍の戦術家として顕著な功績を残しました。しかし、その後の彼の人生は徐々に下降線をたどり、1918年(大正7年)2月、小田原にある別荘で51歳の若さでこの世を去りました。彼の生涯は、海軍における重要な時期と深く結びついており、日本海大海戦における彼の貢献は、日本の海軍史において重要な一章を形成しています。
出典:沢本孟虎著. 『あの人この人』. 青山書院, 昭和17年, p.88.