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秋山好古とは何者か|人物像と評価7選「明治陸軍最後の名将」の実像

  • 公開日:2022/03/30
  • 最終更新日:2026/04/17
秋山好古の人物評

秋山好古は、「日本騎兵の父」と称され、日露戦争で活躍した明治陸軍屈指の名将です。

しかしその本質は、単なる軍人ではありません。
厳格で質実剛健な人格、弟や部下を育てた教育者としての側面、そして人間としての深い器量――。

本記事では、秋山好古の人物像を、弟・秋山真之や周囲の証言をもとに、「7つの評価」からわかりやすく解説します。

秋山好古とは何者か

秋山好古
秋山好古

秋山好古は、1859年(安政6年)、伊予松山藩士の家に生まれました。幼名は信三郎。後に「日本騎兵の父」と称される人物です。

松山藩では正岡子規の叔父にあたる加藤恒忠と並ぶ秀才でした。

ただ、幼い頃から家計は苦しく、

1868年(明治元年)に実弟の秋山真之が誕生するが、父平五郎は生活苦から真之を 「いっそ寺へやってしまおう」 と決める。
それを10歳になる好古がきいていて、

あのな、そら、いけんぞな。お父さん。赤ん坊をお寺へやってはいやぞな。 おっつけウチが勉強してな、お豆腐ほどのお金をこしらえてあげるぞな

と父平五郎をいさめます。

学業を続けるために銭湯の風呂焚きをしながら独学で学ぶなど、強い意志と努力によって道を切り開きました。

その後、教員を経て陸軍士官学校に進み、フランス留学で騎兵戦術を学びます。帰国後は日本陸軍における騎兵の基礎を築きました。

日清戦争・日露戦争では騎兵部隊を率いて活躍し、特に黒溝台の戦いでは、圧倒的な兵力差の中で戦線を守り抜くなど、その指揮能力を発揮します。

また、弟の秋山真之を厳しく育てたことでも知られ、教育者としての側面も持っていました。

秋山好古
北予中学校校長秋山好古

晩年は軍を離れ、郷里松山で校長として後進の育成に尽力します。1930年、71歳でその生涯を閉じました。

※秋山好古のより詳しい経歴(官歴)は下記のページでご覧いただけます。

評価① 弟を育てた厳格な兄

秋山好古は、弟・秋山真之に対して非常に厳しい教育を行いました。

秋山好古は弟真之の将来を考え、

田舎に置いていたのでは立派な男にならない。
やはり東京へ呼んで、自分が監督し、みっちりと勉強させねばならない

と云って、自分の許に呼び寄せます。ただ、好古は真之の面倒を見はしましたが、飴をしゃぶらせるような可愛がりかたは一切せず、とても厳しく躾けます。

例えば、松山の母が真之に東京は寒いだろうと思って綿の入った足袋を送ってくれても、

贅沢だ!

といって脱がせたり、

またある雪の日、真之が玄関でグズグズしていると、好古が出てきて、

何をしとるんぞ?

下駄の鼻緒が切れているから直しているんです……

裸足で行け!💢

と怒鳴ります。

晩年秋山真之は、自分の家に訪ねて来るよう人々には、親戚の誰人であり年長者であろうと、自分が床の間を背にして坐り、決してその座を与えませんでしたが、ただ兄好古が訪ねて来る時だけは、自ら立って座布団を裏返し、好古を床の間の方に坐らせ礼儀を正したといいます。

とても怖い兄だったようですが、それでも真之は、

自分がこれまでになったのも、陸軍の兄のおかげである

と、いつも第三者に述べていたと云います。

愛情はありながらも甘やかさない教育方針が、真之を大成させた大きな要因でした。

評価② 人間としての元帥

秋山好古は、その人間性の高さから「元帥に値する人物」と評されました。

白川義則は次のように語っています。

「秋山さんは元帥になるべき人である。日露戦争に露軍の770隊11万何千のコサックを破ったというだけでも元帥の値打ちはあろうに・・・」
などと嘆いた人がいた。

これを聞いた白川義則中将(のち大将)は、

そういうことを言うべきではない。秋山さんは人間としての元帥である

白川義則中将(のち大将)談

と、諌めました。

軍事的な功績だけでなく、人間としての器の大きさが評価されていました。

評価③ 家庭における素朴な教育

秋山家の教育は、特別なものではなく、質素で堅実なものでした。

母・貞の証言は、それをよく表しています。

秋山貞
母・貞

福島安正将軍が、ある日、貞子夫人を訪ねて、子供の教育方を、懇ろに質問しました。
貞子夫人は答えて、

私のような昔気質の人間ですから、ただ普通の事をしただけで、何も変った教育などはいたしませんでした。ただ好古は、赤坊の時から体が弱うございまして、そればかり苦労しました。

母・貞談

と、謙遜され、それだけを言われたのでした。

特別な教育ではなく、日常の中で育まれた価値観が、好古の人格を形成しました。

評価④ 意外な一面を持つ人物

厳格な軍人である一方で、好古には人間味あふれる一面もありました。

妻・多美の証言からは、その素顔が垣間見えます。

秋山好古と妻多実
秋山好古と妻多実

秋山はあれで中々着物に趣味があったらしいのですよ。気に入った物を着せるとニコニコしていますが、粗末な物を着せると矢張り機嫌が良くなかったようです。その癖少しも御構いがないのですから、着物だけには弱らされました。ひどく襟垢の付いた着物で、久松様の御邸などへ平気で出掛けるのですから、ちっとも油断が出来ないのです

妻・多美談

質素な生活を送りながらも、細やかなこだわりを持つ人物でした。

評価⑤ 乃木希典に通じる精神性

秋山好古の精神性は、乃木希典に通じるものがあったといわれます。

秋山将軍の性格は、乃木大将の性格に能く似た所があり、非常に又乃木大将を崇拝していられたと共に、乃木大将も亦将軍を信ずることが頗る厚かった。
そうした両将軍の関係は、日露戦争の末期、敵を奉天から北に追撃してから後の対陣中、乃木将軍が騎兵集団司令部に将軍を訪ねられた時、お二人の交情誠に濃かなものがあったことなどから見ても、それを推測するに難しくないのである。

森岡守成大将談

武人としての誠実さと精神的な強さが、同時代の将軍たちから高く評価されていました。

評価⑥ 非凡で類のない将軍

秋山好古は、常識にとらわれない独自の人物でもありました。

秋山将軍は実に変った類のない非凡な将軍であった。
強いてこれを求めるならば明石、宇都宮両大将であろうか。
この三将軍の性格はどこか一派相通ずるものがあったようである。

竹内栄喜少将談

既存の枠に収まらない個性が、戦場における判断力にもつながっていました。

評価⑦ 不言実行の実務家

秋山好古は、多くを語らず行動で示す人物でした。

秋山は勇気の人間であり、不言実行の男であった。
余り饒舌らない所に、秋山の味があったようだ

内山小次郎大将談

言葉ではなく行動で示す姿勢が、部下からの信頼につながっていました。

まとめ|秋山好古とはどんな人物か

秋山好古とは、日本陸軍における騎兵の基礎を築いた軍人でありながら、その本質は「人を育てる力を持った指導者」にありました。

厳格で質素な生活を送りながらも、強い信念と行動力を持ち、周囲から深い信頼を得ていた人物です。

彼が「明治陸軍最後の名将」と称されるのは、単なる戦功だけでなく、その人格と生き方そのものに理由があるといえるでしょう。

基本情報

生没
1859年1月7日〜1930年11月4日(享年71)
職業
陸軍軍人
出身
伊予国
あだ名
鼻信(鼻がでかかったから)
異名
「日本騎兵の父」、「東洋のヒンデンブルク」
好きなもの
お酒
苦手なもの
お医者さん(チフスにかかっても自力で治す。その時の後遺症で髪の毛がなくなる)
尊敬する人
福沢諭吉(織田信長、源義経)
ライバル
明石元二郎(囲碁仲間)

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