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秋山真之の人物評:指導振り

  • 公開日:2024/09/11
  • 最終更新日:2024/09/16
秋山真之の人物評

昭和5年に発行されました『海軍逸話集』より、竹内重利中将の談話「秋山真之中将逸事」を現代文に訳してご紹介いたします。

1. 秋山真之の銅像建立に寄せて

秋山真之の銅像

秋山真之の銅像が近々故郷である松山に建てられることになったのは、本当に喜ばしいことです。実は、もっと早く計画が進んでいれば、さらに立派なものができたかもしれません。彼は松山の優れた人材というよりも、日本の偉人と言うべき存在です。いや、むしろ世界的な軍事戦略家と言うのがふさわしいでしょう。日露戦争の後、私がアメリカに駐在していた時、アメリカ海軍の関係者たちは、まるで秋山さんがアメリカ海軍出身であるかのように自慢していたほど、彼の名声は広がっていました。だから、銅像はできれば東京に建ててほしいとも思っています。この機会に、彼から受けた指導について少しお話するのも無駄ではないかもしれません。

2. 初めてのお酒と秋山真之の指導

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明治22年12月、私が江田島に移転したばかりの兵学校に第一回の入学生として入った頃、外出できる日は、学生たちはそれぞれの出身地ごとに集まり、三々五々で下宿に行って一日を楽しんでいました。私の出身藩は、大洲という6万石の小藩で、在校中の出身者は私一人だけでした。同じ伊予出身の学生が誰なのか、全く知らなかったのです。初めて外出が許された日の朝、突然、1号生徒首席の秋山真之さん(松山藩出身)から呼び出されました。当時、新入生だった私は、上級生といえばみんな怖いおじさんだと思っていたので、叱られるのかと恐る恐る行ってみると、秋山さんは突然「小用村に伊予出身者の下宿があるから、お前も一緒に行け」と命令されました。ここで初めて、秋山さんが同じ国の出身者だと知り、恐る恐る彼に従って下宿に行きました。

そこには、1号生徒の山路一善さん(松山藩出身)と、2号生徒の酒井邦三郎さん(宇和島藩出身)がいて、全員で4人でした。みんなで小魚を料理し、昼食の準備をし、酒も出されました。当時の校則には酒を飲んではいけないとは書かれていませんが、「酒気を帯びている場合は罰則がある」とされていたため、新入生の私は当然、飲酒は禁止されていると思っていました。だから、酒の徳利を見て驚いたのです。しかも、私の父は酒を飲まない人だったので、私も酒の味をまったく知りませんでした。

秋山さんは「今飲んでも、帰校する頃には酔いが覚めるから心配するな。点検の時に酒気さえなければ大丈夫だ。さあ、飲め飲め」と言いました。私は恐る恐る三杯飲んでみましたが、大変なことになりました。まるで天地がひっくり返るように酔っ払ってしまったのです。「寝ろ寝ろ、帰る時に起こしてやるから」と言われたので、安心してぐっすり寝ました。こうして初めての酒の指導は無事に終わり、その後の外出の日もいつもこの例にならいました。

しかし、6ヶ月後、秋山さんと山路さんは卒業し、残ったのは2人だけになりました。それで、この下宿も自然に閉鎖され、酒を飲むこともなくなりました。また、秋山さんのクラスの豪傑がある日、酔っ払って帰校後、当直の将校室に乱入し、大暴れして衛兵に取り押さえられる事件が起きたため、校則が改正され、生徒が在校中に酒を飲むことは禁止されることになったのでした。

今日、私が晩酌の一合を最高の楽しみとしているのは、実に秋山さんの大胆でありながらも注意深い指導のおかげであると、いつも思い出しています。

3. 試験対策の極意

秋山さんは卒業前に、試験問題の全部をまとめて私に渡し、「過去四、五年分の試験問題を見れば、出題される可能性が高い問題がだいたいわかる。必要な問題はどの先生でも繰り返し出題することが多いし、普段から先生の説明や講義中の表情に気を付けていると、その先生がどんな問題を出しそうかだいたい予測できるよ」と言いました。秋山さんの試験問題を見てみると、鉛筆で要点が記入されており、その記入法は非常に簡潔で要を得ていて、普通の人には真似できないものでした。このアドバイスを受けた結果、私は比較的苦労せずに良い成績を取ることができ、同僚からは「試験が上手だ」と皮肉られたこともあります。親しい友人たちには、この方法を伝授しましたが、安心できなかったようで、試験前に教科書全体を復習することに熱中し、結局すべてを覚えきれなかったために、逆に成績が悪くなってしまった人もいました。試験のうまさというのも、結局は巧妙さと工夫の問題だと痛感しました。

4. 日露戦争前夜の戦略立案

秋山さんは練習航海を終えて艦に配属された後、一通の手紙をもらい、いくつかの訓戒を受けました。手紙はかなり長く、艦に乗ってからの体験が詳しく書かれており、甲学をもっと研究しておけばよかったとか、乙科にもっと詳しくなっておくべきだったとか、丙術に対する注意が不足していたなど、各科目の研究方針が示されていました。その文章の力強さや、文意の誠実さは今でも覚えており、感謝しています。

その後、時が経ち、日露戦争が始まりました。海戦の直前に連合艦隊の戦略が発表されました。当時私は大尉で、第三戦隊の参謀として旗艦の千歳に乗っていました。専任の参謀が病気で佐世保海軍病院に入院しており、退院の見込みがないため、第三戦隊の戦略はどうしても私が考えなければならない状況でした。しかし、私は海軍大学校での教育を受けていない上、戦略や戦術についての知識も少なかったので、とても困りました。それでも仕方がないので、一生懸命に立案しました。全力を尽くした立案でしたが、経験が不足していたため、自信が持てませんでした。結局、連合艦隊の参謀である秋山さんに少し見てもらいました。もちろん、いくつかの修正が加えられましたが、大筋では同意してもらえました。それから出羽司令官に提出し、第三戦隊の戦略として発布されたのです。

5. アメリカ駐在に向けた準備と心構え

日露戦争が終わった後、私はアメリカに駐在することになりました。当時、秋山さんは海軍大学校の教官で、アメリカ駐在の経験もありましたので、出発前にお伺いしてアドバイスを求めました。秋山さんはこう言いました。「私がアメリカに行くとき、持っていったのは『ブルーメ戦略論』という本一冊だけで、それ以外の書籍は持って行かなかった。この戦略論は陸軍のものだけど、要点はすべて海軍にも応用できる。それでアメリカに着いた後は、もちろんアメリカ海軍の研究に専念したが、暇があるときは必ずこの戦略論を繰り返し読んで咀嚼し、その結論をアメリカの軍事研究に応用して、海軍学の基礎を築いた。今日、大学校で戦略や戦術を教えられるのも、その基礎があるからだ。外国に行くときにたくさんの書籍を持って行くのは、私は大反対だ」とのことでした。私自身、秋山さんのような偉人ではありませんが、彼の教えを受けて研究を続け、一般的な効果を上げることができました。このように、私がここまで進むことができたのは、先輩、特に秋山さんの親切な指導のおかげであり、感謝しています。

6. まとめ

この文章から、筆者が秋山真之に対して深い敬意と感謝の念を抱いていることが強く伝わってきます。秋山真之は単なる軍事戦略家としてだけでなく、人間的な魅力や教育者としての素質も備えており、筆者に大きな影響を与えました。特に、彼が示した「大胆さと注意深さのバランス」や「シンプルかつ本質を捉える指導法」は、戦場や試験において実践的かつ成功に導くものでした。

また、秋山真之の教えは、ただの知識の伝授ではなく、筆者の人生や日常の楽しみにも影響を与えている点が興味深いです。例えば、初めての酒の経験や、試験対策の極意、戦争の戦略立案に至るまで、秋山の存在は常に筆者の成長に寄り添っていたことがよく分かります。そして、秋山が単なる日本の偉人を超えて、世界的に評価されるべき人物であるという視点にも共感します。

この文章は、秋山のような偉大な指導者の存在が、一人の人間の人生にどれだけ深い影響を与えられるかを示しており、その感謝の念と敬意が素直に表現されている点が印象的です。

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