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上杉謙信の「車懸りの陣」と秋山真之の「七段構えの戦法」

  • 公開日:2022/07/11
秋山真之

川中島に深い霧が出ると聞いた甲軍の軍師山本勘助は全軍を二手に分け、12,000の別働隊が、上杉謙信(越軍)の立てこもる妻女山に奇襲をかけ、信玄率いる8000の本隊は八幡原の麓に待ち構え、追い落とされた敵を別働隊とで挟み討ちにするという「啄木鳥(きつつき)の戦法」を打ち立てる。

1. 川中島の戦い

上杉謙信

しかし、この動きを先に見抜いた謙信は、濃霧をついて、八幡原に布陣した甲軍の本営をめがけて突如殺到し、不意を撃つ。武田軍は中・左・右の三備の他に旗本の先備、左右の脇備、計六備の鶴翼の陣を敷いていたが、これを謙信は「車懸りの陣」にて切り崩し、信玄の旗本に討ち入っては、信玄の嫡子義信のに傷を負わせ、信玄の弟信繁を討ち取り、軍師山本勘助を倒して首級5,000をあげる。

この乱陣の中を駆けめぐっていた謙信は、愛刀の順慶小豆長光を抜き払い、真一文字に、信玄の本陣へ斬り込んだ。信玄の本陣には近侍のものがわずか十数名。謙信は駆け寄りざまに流星一閃、信玄に一撃を加え、つづいて二の太刀、三の太刀を加える。信玄は刀を抜くひまなく、軍扇で辛くも受けとめたが、すでに肩先を斬られていた。

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この時、近侍の原大隅守虎義が、信玄の青貝の長槍をひねって、謙信の総角と思うところを見上げざま突くが、鎧が堅く突き抜けず、その返す槍で甲の錏より綿噛にかけ、拝み打ちに何度も打った。打たれた馬は驚き狂奔したために、謙信は信玄を打ち損じる。そして甲軍別働隊が八幡原に駆けつけたために、不利とみた謙信は戦場を引揚げる。ときに謙信32歳、信玄41歳。

2. 「車懸りの陣」について評する秋山真之

秋山真之
秋山真之

さて、この上杉謙信のとった敵の先鋒に対し、味方は車輪の舞うようにつぎつぎに新手をくりだしてたたく循環攻撃法「車懸りの陣」について、秋山真之はこう述べています。

順撃法の一種にして比較的有利なる戦法は、循環攻撃法なり。
此法に依るときは攻撃部隊循環交代するが故に、各部隊十分に其戦闘力を発揮し、攻撃を終りたる部隊は暫く休憩して、鋭気を養ひ且つ戦闘の被害等を復旧し得るの利あるのみならず、敵に対する攻撃を間断なからしめ、遂に我が連続の攻撃に耐へざらしむるに至る。
我が戦国時代の陸戦戦法中敵の堅陣を破るものとして世に伝へる「車懸」の攻撃法の如きは、此の循環攻撃の原則を応用せるものの如し。
艦隊の海岸要塞戦等に於て一砲砦より順じに撃破せんとするが如き場合には、此法を用ふるを最も有利なりとす。

秋山真之は甲越の争いに非常に興味を持っていたらしく、性格としては、信玄よりも謙信の方が好んだと云います。

3. 七段構えの戦法

秋山真之は、この謙信の「車懸りの陣」を応用し、日本海海戦において昼と夜と新手の軍を順繰りに繰り出して敵を殲滅する「七段構えの戦法」をうち樹てます。

七段構えの戦法とは、一隻の軍船もウラジオストク港に入れない周到な迎撃作戦計画となり、昼戦夜戦と正攻奇襲を交互に活用するもので、済州島近海から浦塩沖に至る海上を七段に区分し、それぞれの区域に於て最も有効適切なる攻撃法によってこれを撃滅しようという作戦です。

この作戦を順序立てると、

第一段
主力決戦前夜、駆逐艦・水雷艇隊の全力で、敵主力部隊を奇襲雷撃

第二段
わが艦隊の全力をあげて、敵主力部隊を砲雷撃により決戦

第三・四段
昼間決戦のあった夜、再び駆逐隊・水雷艇隊の全力で、敵艦隊を奇襲雷撃

第五・六段
夜明け後、わが艦隊の主力を中心とする兵力で、徹底的に追撃し、砲雷撃により撃滅

第七段
第六段までに残った敵艦を、事前に敷設したウラジオストック港の機雷源に追い込んで撃滅

しかし実践に臨んで実際に用いられたのは、僅かに第二段から第四段までであった。何故かというと、戦争の始まったのは昼間であったが為めに、夜戦の目的の第一段は自然省かれ、第五段以下はそれを用いるまでもなく、第四段までに既に敵艦隊は全滅してしまったのでその必要がなくなったからとなる。

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