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秋山好古が「日本騎兵の父」と呼ばれる由縁

  • 公開日:2022/04/25
  • 最終更新日:2022/07/03
騎兵

旧松山藩士久松家の当主定謨がフランスのサンシールの陸軍士官学校に留学するにあたり、秋山好古は輔導役を頼まれます。 しかし、ドイツ式の軍事学を学んでいた好古にとってはフランス留学は官費留学としては当然認められません。 好古は陸軍での出世をあきらめ、私費留学にて同行するのでした。

だが、運がめぐり好古の留学は官費へ切り替えられます。

それは陸軍省より「騎兵建設についての研究をせよ」との訓令でした。

1. 騎兵とは

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まず騎兵には、胸甲騎兵(重騎兵)、龍騎兵、軽騎兵の三種があります。

1-1. 胸甲騎兵

銀色に輝く鎧を胸に付け、敵の刀槍や弾丸から身を守る。別称重騎兵。
人馬ともに大型の体格が選ばれ、主として白兵襲撃に用い、その主武器は刀と槍

1-2. 龍騎兵

胸甲をつけない。体格は重と軽の中間のもので、武器は剣つきの騎兵銃

1-3. 軽騎兵

装備は軽く、兵の体重も軽く、諸事かるがると戦場を運動し、司令部捜索に任ずる

人馬ともに強大で、破壊力があり、襲撃を目的とする胸甲騎兵と龍騎兵。
そして、人馬ともに軽少で敏しょうな動きをとり、捜索、警戒に適している軽騎兵となります。

2. 秋山好古への研究命題

その中で、秋山好古に与えられた命題は次の通りとなりました。

  1. 軽騎兵の戦術
  2. 軽騎兵の内務
  3. 軽騎兵の経理
  4. 軽騎兵の教育

前項の目的を達成する為に成るべく仏国軽騎兵連隊に隊付すべし

明治陸軍は歴史も基盤(経済的理由)も浅いため、重厚大規模な胸甲騎兵や龍騎兵を断念し、馬も人も軽量な軽騎兵(捜索騎兵)を採用します。

3. 天才的戦略家のみが騎兵を運用できる

好古はサンシールの士官学校で、老教官より騎兵のなんたるかを学びます。

騎兵は無用の長物だ

と、老教官は思いもよらぬことをいう。

騎兵の任務は、機動性を生かして本軍から離れ、集団で敵を乗馬襲撃することである。しかし、事前に敵に発見されれば、目標が大きいだけに脆いという欠点がある。

老教官曰く、

天才的戦略家のみが騎兵を運用できる

のであると。

凡人は騎兵の欠点を恐れ、ついに最後まで温存したまま使わない。故に国費を無用の長物にしてしまうと言われてしまうのである。 ちなみに、老教官曰く、古来における天才的戦略家とはの4人だけであると説く。

  • モンゴルのジンギスカン
  • フランスのナポレオン一世
  • プロシャのフレデリック大王
  • プロシャの参謀総長モルトケ

続いて、

日本にそういう天才がいるかね(いるはずがない)

と好古に聞きます。

そこで好古は、ひよどり越えの源義経、桶狭間の織田信長の名前をあげて戦法を説明する。

すると老教官は意外な答えに驚き、何度もうなずき、

以後6人ということにしよう

と訂正するのでした。

4. 日本騎兵の父

秋山好古
馬上の勇姿

「男子は生涯一事をなせば足る」と考える好古は、日本の騎兵育成についてほとんど一人で苦慮し、その方策を練り続ける。 自分自身を世界一の騎兵将校に仕立てあげることと、日本の騎兵の水準を、生涯かかってせめて世界の第三位ぐらいにこぎつけさせることを目標とした。

後に日露戦争では世界一といわれたコサック騎兵を破り世界の兵学界の研究対象になるほどに注目される。 かくして人々は好古をして「日本騎兵の父」と呼ぶのです。

5. 騎兵の特質

秋山好古閲『騎兵戦術論』
秋山好古閲『騎兵戦術論』

騎兵の使命は、快速を利用しての索敵行動や、敵の戦線を突破し補給路を分断して兵站基地を潰すことにあります。

――騎兵の特質はなにか。
と、明治陸軍の騎兵監であった秋山好古は陸軍大学の学生に講義したとき、いきなり拳をかため、素手をもってかたわらの窓ガラスをつきやぶり、粉砕した。
――これだ。
という。素手が、血みどろになった。要するに騎兵は敵の意表を衝き、全滅を覚悟した長距離活動と奇襲を特徴とする、という意味を、この明治の軍人は象徴的に説明しようとしたのであろう。

司馬遼太郎著「義経」(鵯越)より

6. 秋山好古の”掟破り”の作戦

世界の天才的戦略家のナポレオンを退け、また天才参謀総長モルトケでさえ敢えて戦闘を回避し続けたという世界最強のコサック騎兵には、秋山好古も「絶対に勝てない」と確信していました。

そこで、正法では勝てないと判断した好古は、奇法による作戦を見い出します。それは、騎兵を馬から全員下ろし、機関銃、騎兵銃や騎砲で、正面から向かってくるコサック騎兵を薙ぎ倒す作戦に出ます。

己の力に慢心していたコサック騎兵は、隊長自ら突進してきたため、秋山騎兵の砲火の前で次々に打ち倒されていった。秋山好古は、数こそは少ないが、かの織田信長の“長篠の戦い”を再現して見せたのでした。

7. 機関銃と騎兵と日露戦争

普仏戦争(1870年~71年)の時、フランス軍において手動式の機関銃が登場することとなる。その威力は多いに期待されたが、しかし、モルトケ率いるドイツ軍の前ではその威力を発揮できずフランス軍は大敗をする。

これにより機関銃は歴史上から消えかかろうとしたが、1880年代にアメリカのマキシムにより自動式の機関銃が登場する。これに続いて、おなじくアメリカ人のホチキスもフランスで機関銃を開発しこれはフランス軍に正式に採用されることとなる。

秋山好古はフランス留学においてこのホチキス機関銃を目にしたことにより、騎兵に機関銃を装備させることを日本陸軍に提案する。秋山好古は、フランス陸軍採用のホチキス機関銃を取り入れ、コサック騎兵に対抗する。

一方ロシアでは、同じくアメリカ人のマキシムによって発明された機関銃を採用します。このマキシム機関銃は二百三高地において日本陸軍を多いに苦しめます。

日露戦争において兵器の威力に気づいた世界各国は、これより争い最新兵器の開発にのめり込んでゆくこととなります。

8. まとめ

“騎兵には騎兵を”という常識を覆し、最新兵器の機関銃を導入したことにより、日露戦争後は「騎兵」は「戦車」へと様を変えてゆくことになります。

皮肉にも「日本騎兵の生みの親」と称された秋山好古によって騎兵の役割は終焉を向かえたのでした。

騎兵軍旗 2尺☓2尺

騎兵服

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