近代俳句の祖・正岡子規が魂を打込んだ俳句革新
俳句の革新運動は正岡子規一人の運動ではなく、尾崎紅葉の硯友社においても、新しい句作が試みられた。ただ紅葉らにとって俳句は小説の余技でしかなく、俳句を遊戯とみなす伝統的思想から抜けきれないものがあった。
それに反して子規においては全く魂を打込んでの第一義の仕事とし、俳句に芸術としての新しい息吹を吹き込もうとする文学運動であった。故に子規を待って初めて真の革新的意義が認められる。
1. 俳句革新
近代俳句の第一項は、子規が新聞『日本』に入った1892年(明治25年)から始まるといわれる。子規は入社に先立って、『かけはしの記』及び『獺祭書屋俳話』(だつさいしょおくはいわ)を『日本』紙上に発表する。この俳話と、1893年(明治26年)の『芭蕉雑談』が近代俳句最初の警鐘となった。
2. 松尾芭蕉
子規の俳句革新は芭蕉を見出すことからその展開を始める。彼は芭蕉の俳諧革新の精神を、そのまま自己の革新精神ともした。また彼は蕪村句集を研究するに及んで、暫く俳句標準の足場をそこに求めたのであるが、晩年には和歌特に万葉集の悟入とともに、もはや子規の作風は元禄でもなく、天明でもなく、彼独自の新句風を成就したものとなった。
子規の周囲には、内藤鳴雪、河東碧梧桐・高浜虚子をはじめ、明治の新俳壇に活躍した有力俳人の多くが門人として集った。その日本派の句風は新興明治俳句の主流となって、新俳句の名をほしいままにした。
3. 写生・写実
子規は、ヨーロッパの文学や中村不折から示唆を得た西洋画のリアリズムの技法を文章に応用した考え方で俳句・短歌を見直し、創作の理論として「写生(写実)」を重んじた。
3-1. 写生の代表的な句
- 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
- いくたびも雪の深さを尋ねけり
- 若鮎の二手になりて上りけり
- 門しめに出て聞いている蛙かな
- さまざまの虫の鳴く夜となりにけり
- 日のあたる石にさわればつめたさよ
また、日清戦争以後、農民・労働者・市民の生活が増税で苦しくなった時代に、民衆の気持ちを単純化して、余情を以て詠ったものもある。
3-2. 余情の代表的な句
- 痩村や税の増したることし米
- 畑打や子は徴せられて近衛にあり
- 弁当さげて役所をいずれば夕しぐれ
- 納豆売り新聞売り話しけり
また俳句のみならず和歌についても、万葉調と俳諧調の混じった独特のものであった
3-3. 代表的な歌
- 柿の実のあまきもありぬ柿の実の 渋きもありぬ渋きぞうまき
- 瓶にさす藤の花房短かければ たたみの上にとどかざりけり
4. まとめ
子規の死後、俳句の信念は、『ホトトギス』の高浜虚子、自由律の河東碧梧桐、短歌の信念は『アララギ』の伊藤左千夫、長塚節、島木赤彦らによって受け継がれた。
参考文献:『明治文化史 概説編』