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秋山好古:質素なる武人の教えと生涯

  • 公開日:2023/12/24
  • 最終更新日:2024/09/14
秋山好古の人物評

「出来た人」というのはこうもあろうかと思うことがある。秋山好古大将がそういう人であった。

1. 大将の墓

大将の墓は、伊予松山市道後温泉の鶯谷という山にある。累々たる墓石の中に、一見しただけでは容易には見つけられないほど小さな墓で、ただ「秋山好古之墓」としてある。「親の墓より大きくしてはいかん」という遺言からであった。

2. 質素な生活

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大将は、日露戦争の秋山支隊として、ミシチェンコの騎兵団を縮み上がらせた将軍である。極めて、無造作な人であった。

大正2年春、高田師団長長岡外史中将に代わって師団長となったとき、副官が「何を準備して置きましょうか」とたずねた(赴任前のことである)。すると、「鍋と徳利だけでよい。部屋も一室だけでよい。あとは閉め切って置いてくれ」ということだったので師団でもびっくりした。

ハンカチーフなどは持っていない。汗が出ると袖でクルクルと顔を撫で回す。朝も滅多に顔を洗わない。わずかに湿らせた手拭いを使って眼のフチをクルクルと猫みたいに撫でるだけである。

「昔の侍は、醤油のような贅沢なもので食事をしなかった」と大将は言った。大将は貧しい家に育って苦労しただけに、いつまで経っても、贅沢という言葉さえ知らないくらいだった。ふだんでも、雨が降らない限りは、庭でめしを食べた。

3. 大将の教え

よく訓話めいたことをいわれたが、(めいたと言っては失礼に当たるが)、これといって内容のあるものではなかった。しかし、大将から言われると心に響き、深く考えさせらた。「くれぐれも言うとくが、しっかり勉強をおしよ。人間は塩をなめても働けるから、死ぬるまで働かんといかんぞい」といった風で、モクモクと言われる。白河大将にさえ「勉強せいよ」といわれた。すると白河大将は「ハイ」と言って、かしこまって居られたものだった。上海事変で百八個の破片を身に受けながら、一つも傷所をおさえず、手套は真っ白のままであった。その大人間、大大将も、秋山大将の感化に負うところが大きかった。

「くれぐれも」というのがクセであった。一つの話の中に「くれぐれも」という言葉がいくつ出るかもわからない。「くれぐれも手本になるようにせんといかんぞい。くれぐれも言うとく」といった風に、その「くれぐれも」が心に響き、深く考えさせらたものだ。何かの時、私に下した手紙にも「邦家前途の為、堅実なる学生を養成すること極めて必要に候得ば、呉々も十分の御用意相願申候」とあって、手紙にも「くれぐれも」という言葉があった。

敵の包囲を受けながら、石の上に横になって、酒をチビチビとやっていたり、「大砲の音を聞くと酒がうまかった」というくらいであった。「人間は虱(しらみ)がわかなくなったらもうダメだよ」と、福島少将(安正)がそれを聴いて唖然としたという話がある。

4. 校長時代

秋山好古
北予中学校校長時代

教育総監を最後に退職して、故山(松山)に帰った。「人間は最後まで働くものだ」という信条から松山の私立北予中学校の校長になった。大将で中学校長はただ一人であった。「校長は年をとった。除名の理由にはならない。もし私が倒れたら、皆は私の屍を越えて前進してくれ。」という仕込方であった。遠足でもあると、校長はトコトコと後ろから追いかけた。騎兵大将だから、馬に乗っては天下一だろうが、歩くとなると、生徒の足にはかなわない。一里遅れ、二里遅れしてしまうが、それでも、トコトコとどこまでも歩き続けた。

5. 大将の最後

「人間は最後まで」という姿勢がはっきりと見て取れる。蒲生氏郷は「願くは、思うさま働きて」と言ったが、大将も軍人として、まだ働きたかったであろうが、何をしても「最後まで」という流れで押し通した。臨終のベッドには、白河大将が立っていた。病床の大将は、不意に大きな声で「奉天の右翼へ!」「鉄嶺へ前進!」と叫んだ。これが最後であった。馬上剣を揮って、満州の広野を駆け抜けているつもりであっただろう。如何にも武人の最後らしい。「鎧を着せて諏訪湖に埋めよ」、といった信玄のようであった。

6. まとめ

秋山好古の墓は質素で、「親の墓より大きくしてはいかん」という遺言に従って作られました。秋山大将は日露戦争で活躍した将軍で、無造作で質素な生活を送っていました。彼は高田師団長に代わって師団長になった際、最低限の必需品しか必要としなかった。

秋山大将はハンカチを持たず、顔を洗うことも少なかった。彼は「昔の侍は醤油のような贅沢なもので食事をしなかった」と言い、常に質素な食事を好んでいました。また、彼の教えは内容のあるものではなかったが、深く心に響くものでした。秋山大将は勉強の重要性を強調し、白河大将にさえ勉強を促しました。

秋山大将は北予中学校の校長になり、「人間は最後まで働くものだ」という信念を持っていました。彼は校長として、生徒たちを励まし、自らも努力を重ねていました。彼の最後は、軍人としての彼の生きざまを反映しており、病床で戦場を思い出して叫んでいたと言われています。

この物語は、秋山好古大将の質素な生活、教育に対する姿勢、そして軍人としての情熱を通じて、彼の人格と生き方を浮き彫りにしています。

出典:桜井忠温著. 『大砲の秋』. 新紀元社, 昭和16年, p.160.

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