連合艦隊旗艦「三笠」の概要

日露戦争において、日本海軍の象徴ともいえる存在――それが戦艦「三笠」です。
東郷平八郎率いる連合艦隊の旗艦として、黄海海戦・日本海海戦の両戦いにおいて中心的役割を果たしました。
本記事では、「三笠」が誕生した背景から戦歴、そして戦後の保存に至るまでの歩みを、ひとつの流れとして整理します。
戦艦「三笠」とは

日清戦争後、日本海軍はロシアとの対決を見据え、「六・六艦隊」整備計画を推進しました。
これは戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻を中核とする大規模な海軍拡張計画です。
この計画は1896年(明治29年)から1905年(明治38年)までの10年計画であり、
- 総艦艇数:約103隻
- 総排水量:約153,000トン
- 総事業費:約2億1,310万円
という、当時の国家財政規模から見ても極めて大きな事業でした。
(当時の国家予算は約2億5,000万円)
その最終戦艦として建造されたのが「三笠」です。
- 1898年:英国ヴィッカース社に発注
- 1900年:進水
- 1901年:竣工(イギリス・サウサンプトン)
- 同年:横須賀へ回航
こうして完成した「三笠」は、日露戦争において
- 黄海海戦
- 日本海海戦
の両戦いで連合艦隊の旗艦を務め、常に第一戦隊の先頭に立つ「嚮導艦」として活躍しました。
日露戦争後の「三笠」
1905年9月5日、ポーツマス条約により日露戦争は終結します。
しかしそのわずか6日後の9月11日、佐世保港に停泊していた「三笠」は弾薬庫の爆発事故により沈没してしまいます。
この事故は戦後間もない日本に大きな衝撃を与えました。
その後、
- 翌年:引き揚げ・修復
- 第一次世界大戦:参加
- 1921年:アスコルド水道で座礁
- 1923年:関東大震災で損傷
と波乱の運命をたどります。
そしてワシントン海軍軍縮条約により現役を退き、記念艦として保存されることが決定されました。
1926年には横須賀で保存工事が完了し、「記念艦三笠」として公開されます。
なお、日本海海戦が行われた5月27日は「海軍記念日」とされ、戦前には国家的行事として盛大に祝われていました。
第二次大戦後の「三笠」
第二次世界大戦後、「三笠」は連合軍に接収され、
- 保存組織の解散
- 娯楽施設としての転用
などにより、著しく荒廃してしまいます。
この状況を憂えたのが、
- イギリス人ジャーナリスト
- アメリカ海軍提督 チェスター・ニミッツ
でした。
ニミッツは三笠保存の必要性を訴え、自身の著作の収益を寄付するなどして復元運動を後押しします。
その結果、
- 1958年:三笠保存会再建
- 1959年:復元工事開始
- 1961年:復元記念式典
と、現在の姿へとよみがえりました。
現在も横須賀の三笠公園では、毎年5月27日に「日本海海戦記念式典」が開催されています。
まとめ
戦艦「三笠」は単なる軍艦ではなく、
- 日本海軍の象徴
- 近代国家形成の象徴
- 戦後復興と国際協力の象徴
という複数の意味を持つ存在です。
その歩みをたどることで、日本の近代史そのものが見えてくると言えるでしょう。


