連合艦隊旗艦「三笠」の概要
戦艦「三笠」とは
日清戦争後、海軍は仮想敵国ロシアとの対決に備えて六・六艦隊の整備に着手します。六・六艦隊とは、戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を基幹とするもので、この拡張計画は1896年(明治29年)度から1905年(明治38年)度までの10年計画となります。
すでに戦艦「冨士」と「八島」は建造中でしたので、戦艦4隻と装甲巡洋艦6隻を中心とする103隻の総排水量153,000トンを建造することを目標とします。これに要する経費は2億1,310万円であり、1896年(明治29年)12月の第10回帝国会議において承認されました。
ちなみに、1896年(明治29年)度の総歳出は約2億5,000万円でしたので、この海軍拡張がいかに大事業であったかがわかります。なお、1896年(明治29年)度の海軍予算は3,800万円、1897年(明治30年)度は7,600万円であり、対歳出比はそれぞれ18.7%、30.4%となります。
こうして戦艦「三笠」は、この計画の最終戦艦として1898年(明治31年)12月、英国ヴィッカース社に発注(約2,000万円)され、1900年(明治33年)11月8日に進水。1901年(明治34年)3月1日にサウスハンプトンで竣工され、同年5月18日、横須賀に回航されました。
戦艦「三笠」は黄海海戦及び日本海海戦と日露海戦を通じて連合艦隊旗艦をつとめ、また常に主力第一戦隊の嚮導艦(きょうどうかん)としてその力を大いに発揮します。
日露戦争後の「三笠」
1905年(明治38年)9月5日締結のポーツマス条約によって日露戦争は終結となります。その直後の9月11日に「三笠」は佐世保港内で弾薬庫事故によって沈没します。
翌年に引き揚げられ再び艦隊に編入され、その後第一次世界大戦にも参加します。しかし、シベリア出兵を支援中の1921年(大正10年)9月15日、沿海州アスコルド水道で座礁。離礁して横須賀に回航されましたが、1923年9月1日の関東大震災に遭い再び大破します。
同年のワシントン海軍軍縮条約によりそのまま除籍となり、横須賀に記念艦として保存されることになります。それらの諸工事が1926年(大正15年)11月に完了し、「記念艦三笠」保存記念式典が挙行されました。
これより日本海海戦の第一日目の5月27日を「海軍記念日」とし、昭和前期までは例年東京で天皇の臨席する水交社主催記念式典が行われ、海軍軍楽隊の演奏や陸戦隊の行進や、また各地の団体や学校でも記念行事が行われていました。
第二次大戦後の「三笠」
しかし、第二次世界大戦の敗戦後、「海軍記念日」は廃止となり、「記念艦三笠」は連合軍により接収され、三笠保存委員会も解散となり、アメリカ軍人の為の娯楽施設として扱われるなどして著しく荒廃します。
この惨状を見たイギリス人のジョン・S・ルービンはジャパンタイムズに投書し、またアメリカ海軍のチェスター・ニミッツ提督が「三笠」の状況を憂いて筆をとり、その売上金を三笠の保存に寄付するなどして復元保存運動が再興します。
そして、1958年(昭和33年)には三笠保存会が再建され、復元募金開始し、1959年に復元整備工事が行われ、そして1961年5月27日に記念艦三笠復元記念式挙行となり今日に至っています。
今は毎年5月27日に、横須賀の三笠記念公園で「日本海海戦記念式典」が催されています。