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小栗上野介とは何者か|日本の近代化を先取りした幕末の先見者

  • 公開日:2026/04/12

幕末という時代は、多くの英雄が語られる一方で、その陰に埋もれた人物も少なくありません。
小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけ ただまさ)は、その代表ともいえる存在です。

幕府の重臣として財政・外交・軍備の中枢を担いながら、日本の将来を見据えた近代化政策を推し進めた人物――それが小栗上野介です。

とりわけ横須賀製鉄所(のちの横須賀海軍工廠)の建設は、日本の工業化と海軍力の礎となる国家的事業でした。

幕末の政局のなかで新政府軍に捕らえられ、志半ばで非業の最期を遂げたため、長く正当に評価されてきませんでした。
しかし後年、小栗の構想は明治日本の発展の中で実を結び、いまでは「近代日本の設計者の一人」として再評価されています。

近年では、2027年のNHK大河ドラマの題材として取り上げられることが決定しており、
小栗上野介という人物に改めて注目が集まっています。

幕末から明治への転換期を描く物語として、多くの人がその存在を知るきっかけになると期待されています。

小栗上野介のすごさとは何か

小栗上野介忠順

歴史は勝者によって綴られるものです。維新の英雄として語り継がれる西郷隆盛や坂本龍馬の陰で、敗者となった徳川幕府側にも、現代日本の基盤を設計した人物がいました。

幕末において小栗と対照的な存在として挙げられるのが、勝海舟です。

幕末の巨頭、勝海舟は自著『氷川清話』において、小栗を次のように評しています。

精力は大にすぐれ、計略に富み、世界の大勢にも明るく通じて、一種の識見を有して居た。

勝海舟が交渉によって道を切り開いた人物であったのに対し、小栗は制度と基盤を築く実務家でした。
その才覚は高く評価されながらも、その合理性と剛直さゆえに、周囲との関係をうまく築けなかった面もありました。

やがて明治維新の混乱の中で新政府軍に捕らえられ、十分な取り調べもないまま処刑されます。

なぜ、これほどの人物が「生かして使われる」ことなく、歴史の舞台から退場させられたのか。

その生涯を辿ると、時代を先取りしすぎた天才の姿と、組織変革の難しさが浮かび上がってきます。組織変革の難しさが浮かび上がってきます。

宿敵・勝海舟が語る小栗上野介

小栗の鋭すぎる才覚と妥協を許さない姿勢は、幕府内部でも多くの敵を作りました。

特に、穏健な交渉を重んじた勝海舟とは政治的に対立することが少なくありませんでした。

勝は自らの日記や談話の中で、小栗の致命的な欠点として「言辞濶疎にして通ぜず(言葉が素っ気なく、周囲の理解を得られなかった)」と指摘しています。

しかし、その実力と忠誠心については、誰よりも高く評価していました。

「小栗上野介は幕末の一人物だよ。あの人は、精力が大にすぐれて、計略に富み、世界の趨勢にも略々通じて、而かも誠忠無二の徳川武士で、先祖の小栗又一によく似て居たよ。一口にいふと、あれは三河武士の長所と短所とを両方具へて居ったよ。」

勝は、小栗を「徳川武士の真髄」を持つ稀代の才人として認めつつ、その「正論すぎて周囲を動かせない」というリーダーシップの限界を冷徹に分析していました。

▶解説
「又一(またいち)」とは、小栗家で代々受け継がれてきた通称(襲名)小栗忠政を指します。

名前の由来: 先祖の忠政が徳川家康に従って各地で戦った際、毎回の戦いで「一番乗り」「一番槍」「一番首」といった目覚ましい武功を立てました。それを見た家康公から、「また一つ、また一つ」と賞賛されたことにちなんで、「又一」と名乗るようになったと伝えられています。

つまり「又一」とは、小栗家の武勇と忠義の象徴ともいえる名前であり、上野介自身もその精神を受け継ぐ者として認識されていました。

世界を見て得た「国家の視点」

小栗の先見性は、1860年(万延元年)の遣米使節への参加にありました。

当時33歳という若さで渡米した彼は、西洋文明の本質に触れます。

彼が見抜いたのは、単なる軍事力の差ではありませんでした。
造船・製鉄・機械・財政といった基盤が整ってこそ、国家は強くなる――その現実でした。

この経験によって、小栗は日本を「世界の中の一国家」として捉える視点を得ます。
ここから彼の構想は、「国家の再設計」へと進んでいきます。

幕府の枠を超えた改革構想

小栗上野介の特徴は、幕府の中枢にありながら、その前提を疑うことができた点にあります。

彼は、封建的な藩体制に代わる中央集権的な統治構造の必要性を認識し、後の廃藩置県を先取りする構想を持っていました。

さらに、身分にとらわれない兵の募集や西洋式訓練の導入によって、近代的な軍制への転換を進めます。

これは単なる制度改革ではなく、日本という国家の構造そのものを作り替える試みでした。

横須賀製鉄所(造船所)をつくった男

小栗の最大の功績は、横須賀製鉄所の建設を推進したことにあります。

幕府の財政が厳しい中で、彼はフランスの協力を得て資金と技術を導入し、この国家的事業を実現しました。

この施設は単なる造船所ではありません。
艦船の建造・修理、兵器の製造、技術者の育成を担う、日本初の本格的な近代工業拠点でした。

小栗は、たとえ幕府が滅びても、この基盤は必ず次の時代に生きると確信していました。

日本海海戦に結実した小栗の構想

1905年(明治38年)、東郷平八郎率いる連合艦隊は、日本海海戦においてロシアのバルチック艦隊を撃破し、歴史的勝利を収めました。

後年、東郷は小栗上野介の子孫・小栗又一を自宅に招き、次のように語ったと伝えられています。

日本海海戦でロシア艦隊を破ることができたのは、
小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげです

この言葉は、幕末に築かれた工業基盤が、明治日本の勝利につながったことを象徴するものです。

日本海海戦の勝利は、一時の戦術ではなく、長年にわたる国家基盤の整備の成果でした。
小栗の構想は、確かにこの時代に結実したのです。

なぜ小栗上野介は再評価されるのか

小栗上野介が再評価される理由は、その視線が常に「未来」に向けられていたからです。

幕府の中にいながら、その発想は体制の枠を超えていました。

財政・軍事・産業を一体として考え、国家の基盤を築こうとした点において、小栗は明治政府の先を行っていたともいえます。

歴史は勝者によって語られます。しかし長い視点で見れば、小栗上野介は「敗者」ではなく、日本の未来を先に見ていた先駆者でした。

悲劇の最期と失われた可能性

戊辰戦争の中で、小栗は徹底抗戦を主張しましたが、幕府は恭順を選択します。

その後、小栗は上野国に退きますが、新政府軍に捕らえられ、十分な取り調べもないまま処刑されました。

この最期については、同時代の人々からも疑問の声があり、勝海舟もその死を深く惜しんだと伝えられています。

彼の死は、日本が持っていた大きな可能性の一つを失った出来事でもありました。

小栗上野介を知る意味

小栗上野介を知ることは、幕末史を単なる勝者と敗者の対立としてではなく、「誰がどのような未来を描いていたのか」という視点で見直すことにつながります。

彼は幕府という組織の終わりを見据えながら、その先の日本のために基盤を築こうとしました。

短期的な成果ではなく、長期的な価値を残す――
その姿勢こそが、小栗上野介という人物の本質です。

敗者として歴史に埋もれた人物ではなく、近代日本を支えた設計者の一人として、改めて評価されるべき存在といえるでしょう。

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